『ぼくらの』と倫理的問題(その1)――アニメ版とマンガ版の違いはどこにあるのか?

 『ぼくらの』という作品がなぜ倫理的なのかということを説明するためには、まず、鬼頭莫宏によるマンガ版の『ぼくらの』と現在放送中のアニメ版の『ぼくらの』との差異を明確にすべきだろう。


 アニメの『ぼくらの』は、ネットで一時期話題になったように、監督自身が原作のマンガとは別の方向性を打ち出すことを明確に表明していて、かつ、原作のマンガがまだ終わっていない以上、どこかで独自の結末をつけざるをえない状態になっている。アニメは、現在放送中なので、最終的にどのような結末を描き出すのか(どのような結論を提出するのか)はまだ分からないわけだが、現在までのところで、この作品が原作のマンガとどのような点で異なっているのかということについては、かなり明確に、描き出すことができるように思える。


 もちろん、アニメとマンガとの相違点は非常にたくさんある。しかし、根本的な違いはどこにあるのかと考えてみれば、それは、まさに、前回問題にしたような、家族的関係と競争的な関係との差異として、位置づけることができるように思えるのである(前回も言ったように、僕は、この対立図式それ自体に対して疑問を持っている)。


 アニメ版の『ぼくらの』は、明らかに、家族的関係を重視している。アニメは、切江洋介(キリエ)のエピソードから原作のマンガとは大きくそのストーリーを変えるわけだが、ほとんどアニメ版オリジナルと言える、キリエ、往住愛子(アンコ)、古茂田孝美(コモ)、宇白順(ウシロ)の各エピソードを見ると、この作品がどこに行こうとしているのかを読み取ることは非常に容易である。つまり、そこで強調して描かれていることは、主人公であるはずの子供たちよりもむしろその親たち、親が子供に対してどうあるべきかという(家族という枠内における)問題構成である。そこでの結論は、非常に簡単なもので、親は子供のそばにいるのがいいのであって、家族は円満であるほうがいい、というような当たり前の規範意識である。


 ここで提出されている結論は、おそらく、原作マンガに対する回答なのだろうが、それは、つまり、競争的関係によって生じる問題をいかにして解決するのかというその解決策として、家族的関係が重視されている、ということである。このことは、以前、アニメ『NHKにようこそ!』を扱ったときにも問題にしたことであるが、『NHK』において、ひきこもりという存在が競争的な関係に耐え切れない者のことだとすれば、そうしたひきこもりからの脱出を促すものとして(あるいは、ひきこもりに、そのような競争的関係を耐えられるようにするための緩衝材として)、作品の中で示されているものは、家族的な関係の重要性に他ならないだろう(飢えたひきこもりに食事と職を与える老夫婦のエピソードのことを思い出してほしい。あるいは、主人公の佐藤達広の生活に過度に侵入してくる中原岬の存在のことを)。


 アニメの『ぼくらの』に出てくる(マンガのほうには出てこない)ヤクザの存在というものが、今日のサブカルチャー作品において持っている独特の意味と価値を思い出すべきだろう。ヤクザという存在(サブカルチャーにおいて理想化されたイメージとしてのヤクザの存在)において重要なのは、義理と人情の価値観、一本筋を通せば、そこで築かれた関係性を是が非でも死守するというような価値観である。こうした価値観の基礎に、親分・子分といった擬似的な家族関係があることを見て取ることは容易である(例えば、『ぼくらの』に出てくる保(たもつ)というヤクザは、死んだ兄貴分との絆を重視するがゆえに、自分の命も省みず、極めて危険な事件の渦中に入っていく)。


 あるいは、『瀬戸の花嫁』で問題になっているような「任侠」という価値観もあることだろう。それは、つまり、「良きヤクザ」の定型的なイメージであるわけだが、そこでのヤクザ像とは、一般人に危害を加えるどころか、むしろ、一般人の安寧な生活のために積極的に尽くすような存在のことであり、いわゆる「弱きを助け、強きを挫く」ような存在のことである。ここで強調されている価値観とは、つまるところ、地域社会の安定ということであり、共同体主義的な価値観の重視ということである。アクセントが置かれているのは、一見すると治安を脅かしているように思えるヤクザの存在が、あたかも警察組織のように、治安の維持に貢献しているという構図である(この点に関しては、ヤクザの娘が学校(地域社会における道徳規範の訓練場としての学校)の教師になるという『ごくせん』を参照してほしい。あるいは、競争的関係の中で駆逐されるヤクザの存在を描いている『鉄コン筋クリート』も)。


 アニメ版『ぼくらの』の問題点とは、非常に簡単に言ってしまえば、そこにおいては回答だけが存在し、問いそのものはほとんど前面に出てこない、というところにあると言える。マンガ版の『ぼくらの』は、むしろ、逆に、問いを提出している作品である。つまり、そこでは、(競争的関係を背景にした)倫理的な問いが提出されているのである。


 「TVで放送できることとできないことがある」という、ある種の常識的な考えに対して、「いったい、それはなぜなのか?」という素朴な問いをぶつけてみるべきだろう。アニメ版『ぼくらの』はマンガ版『ぼくらの』で描かれている何かを避けている。そのことの理由を、マンガ版は非常に残酷で暴力的なのでTV向きではないからだ、という月並みな理由に回収すべきではないだろう。TVで放送されるに適した作品があり、そうではない作品がある。では、TVで放送されるに適した物語、誰にでも推奨できるようなイデオロギーとはどのようなものなのか、と問う必要があるように思えるのである。


 まさに、ここにおいて、家族的関係の強調は、深刻な問いに対する回避として機能しているように思えるのである。つまり、アニメ版『ぼくらの』の問題点とは、マンガ版が提出した問いに、あまりにも早く、それも定型的な仕方で、答えてしまっているところにあるように思えるのだ。


 では、マンガ版『ぼくらの』が提出している倫理的問いとはどのようなものなのか? その点については、次回以降、マンガの展開を追う形で詳しく論じていくことにしたいが、少しだけ言っておくと、それは、まさに、競争的関係における倫理的問題、バトルロワイアルの状況下における倫理的問題である。ここで問われていることは非常に簡単なことである。それは、すなわち、われわれの生の価値とは、いったい、どのようなものなのか、ということである。もっと言えば、「生活第一」ということ以外に、われわれの生を価値づける原理原則というものはないのかどうか、ということである。この点について次回、問題としてみることにしたい。