手塚治虫『ボンバ!』――物語には回収されない過剰なもの

 手塚治虫のマンガ『ボンバ!』を読み返してみて、いろいろと思うところがあったので、そのことについて少し書いてみたい。


 この作品は、おそらく、手塚治虫の作品の中でも、失敗作として数え上げられている作品ではないかと思われる。しかしながら、僕は、個人的には、かなりこの作品が好きだし、今までに、何度も、この作品を読み返してきた。今回、この作品を読み返してみて、いったい、どのような点が魅力的で、どのような点が大して面白くないのかを、それなりに整理できるように思ったので、そのことについて書いてみたいと思っているわけである。


 まず、非常に大雑把な見取り図を提示すれば、この作品は、最初のほうが非常に面白く、魅力的であるのに対して、物語が終わりのほうに近づくにつれて、段々と、つまらなくなっていく。物語が最後に向かうにつれて、話がつまらなくなってくる原因は、この物語が非常に御都合主義的な終わり方をしているからだけではない。その点が決定的であるわけではない。むしろ、その原因は、この『ボンバ!』という作品の物語構造そのものに求められるように思える。つまり、この『ボンバ!』という物語が語られ始めると、必然的に、ある種の魅力が失われてしまうという、そのような物語構造上の欠陥を、この作品が抱えている、ということである。端的に言ってしまえば、『ボンバ!』という作品のモチーフは、物語というものにまったく適していない、ということである。


 ボンバとは、いったい、何か? まさに、このように問うことによって、最初にあったものが失われてしまうのである。ボンバとは憎しみの表現である、というのが、この作品から読み取れる非常に一般的な説明である。他人や世界を憎む心があり、そのような憎しみの心が馬の形を取って現われ、人を殺したり、様々な破壊活動を行なうようになる。しかしながら、まさに、こんなふうにして説明を与えるという行為が、この作品の魅力を損なう結果になってしまっているように思えるのだ。ボンバは憎しみの表現であるという定式は、まさに、作品の中で与えられているわけだが、つまるところ、そんなふうにして、手塚治虫自身も間違ってしまったと言えるだろう。言い換えれば、『ボンバ!』をひとつの物語として展開させようとすると、どうしても間違えざるをえなくなる、ということである。


 つまり、『ボンバ!』という作品の物語構造上の欠陥とは、そこでの物語が、「ボンバとは何か」という問いを中心にして構成されているからに他ならない。ボンバに、姿や形、名前や来歴を与えることによって、そこに物語を立ち上げるということ。結果、その物語は、ひとつの結末に向かわざるをえなくなり、そこで中心を占めることになるのは、心理学的な解釈である。つまり、ボンバを憎しみの表現というふうに解釈して、心理的な問題が解決すれば(他人や自分を愛することができるようになれば)、すべての問題が解決する(ボンバが消える)というふうに解決策を提示するわけである。


 しかしながら、その点でこそ、ある種の過剰が噴出するのである。物語を素直に読めば、ボンバを心理的な産物としてだけ解釈することはどうしてもできないはずである。というのは、ボンバは、あるときから実体化し、実際に人を殺すようになるからである。つまり、ボンバの存在は、主人公の少年の半身(心理的な産物)であると同時に、やはり、それ以上の何か、外からやってきた何かでもあるわけである。そうした側面を、この作品は、後半、まったくうやむやのままにして、話を強引に終わらせているところがあるのだ。


 つまるところ、この『ボンバ!』という作品自体が、どこか、作者の手に余るところがあるようなもの、一度始めてしまったがために、どこかでけりをつけなければならない、そうした過剰なものを含んだ作品のように思えるのである。手塚治虫は、この作品が生み出された原因を、その当時、自分が置かれていた状況に見出している。

 この作品を読まれたかたは、暗い、いやァな気分を味わわれたことでしょう。
 そう、ぼくの作品には、ある時期、なんとも陰惨で、救いのない、ニヒルなムードがあったのです。
 ちょうどそれは、60年と70年安保の間の頃です。はっきりいうと“新左翼”といわれる若者たちがさかんにゲバをやっていた頃です。また、虫プロ虫プロ商事にトラブルが絶えず、ぼくはその収拾にかけずりまわって、心身困憊していた頃です。
 ぼくはやけくそで、世の中にも、自分の仕事にも希望がもてず、どうにでもなれといった毎日だったのです。
手塚治虫漫画全集93、講談社、1979年、あとがき)



 しかしながら、このような個人史的な解釈、あるいは、歴史的な解釈もまた、間違っているように思える。そのような解釈には回収し切れない過剰なものがこの作品から読み取れるように思えるのだ。


 注目すべきは、物語の発端、作品の最初の十二ページである。この段階では、ボンバには、まだ、ほとんど何の内容も与えられていない。名前も形も与えられていない。与えられているのは、「ドカッ、ドカッ」という音だけである。この音は、後に、ボンバに、馬の形象が与えられることから、馬が駆ける音だというふうに理解することができるが、しかし、この段階では、いったい何だか分からない、何ものかの存在を知らせる音だと言うしかないだろう。


 何だか分からない音がそこにある。誰も人のいない深夜の駅のホームで、その音が聞こえてくる。これこそが、この作品が最初に印づけたもの、この作品の根源にあるものである。この音は、主人公の少年にとって、外部にあるものである。後に、ボンバが少年の心理と関係づけられるようになると、それは、少年の内面であるとも言えるようになるわけだが、しかし、そこには、完全には内面化し切れないものがある。そのような外部にある形のないものが、徐々に形をなしてきて、それが自分自身の一部となり、自分自身の力となり、その力によって人を殺すまでになるということ。この瞬間こそが、この作品のクライマックスであると言っても過言ではないだろう(少年時代のエピソードがそれに当たる)。その瞬間とは一種の奇跡の瞬間、ありえないことが起こった瞬間であり、ある種の欲望が実現し、その結果、満足がもたらされた瞬間だと言えるだろう。


 最近のサブカルチャー作品から似たようなモチーフを描いている作品の名前を上げてみると、例えば、『なるたる』がそうだろう。この作品においても、外部にある存在と自己との同一化がまずあり、その力の使用という次の段階がある。ある種の媒介を通すことによって人を殺すという呪いのモチーフということで言えば、『DEATH NOTE』や『地獄少女』の名前を上げることができるだろう。これらの作品においても、外的な力の取り入れというモチーフを見出すことができる(テクノロジーの使用という側面も見逃すことはできない)。いずれにしても、ここには、「心の闇」とかそのような言葉で語られるような心理的問題以上のものがあるように思えるのである。


 手塚治虫は、おそらく、当時の状況から、何かに近づいたのであり、結果、その何かから身を引いたと言える。この何かは、『ボンバ!』の「あとがき」で名前が上げられている三人のマンガ家たち(白土三平つげ義春水木しげる)と共有されるようなものだったのだろう。この何かに名前や形を与えることはできるだろうが、名前や形と与えることは、同時に、その本質を見失わせることでもある。最初に聞かれたものが、それがマンガという作品媒体であるだけに、ヴィジュアル化されてしまうのである。


 物語という形式には、どうしても、そのような切り詰めが存在するだろうが、しかしながら、物語なしには何も表現することはできないだろう。そこには、当然のことながら、限界がある。『ボンバ!』という作品は、物語のレベルでは失敗作だろうが、そのような限界を強く意識させてくれるという点で、非常に注目に値する作品だと言えるのである。