vol.2に引き続いて、vol.3にも書かせてもらいました。今回書いた文章は、「キャラクターの不定形な核――『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」というもので、タイトルに示されているように、手塚治虫論とエヴァンゲリオン論とが融合したような文章になっています。
vol.2では、「エンドレスエイト」(『涼宮ハルヒの憂鬱』)、『かなめも』、『けいおん!』という2009年に放送されたアニメを問題にしたのですが、そこでの議論の延長線上に今回の文章があります。つまり、vol.2の文章でもキャラクターについて少し言及しているわけですが、そうしたキャラクターという観点が出てくる淵源を手塚治虫の作品と『エヴァ』とに見出すというのが今回の試みです。
今回の文章を書くにあたっての基本的な発想として、『エヴァ』テレビ版最終二話という悪評高いエピソードを、キャラクターという観点の下で、新しく捉え直すことができるのではないか、ということがあります。
『エヴァンゲリオン』はゼロ年代を生き延びてきたコンテンツだと言えますし、新劇場版が作られている現在にあっては、まだ生み出されている途上にあるコンテンツだとも言えるでしょうが、そんなふうに生命力を保ち続けている理由とは何なのか。それは、『エヴァ』が、その作品の中ですでに、現代にも通じるキャラクターについての観点を明確に提示しているからではないのか。こんなふうに僕は思ったわけです。
今回の文章のうちでは、キャラクターという観点を現在の萌えアニメなどと結びつけているわけではないのですが、僕としては、『けいおん!』、『侵略!イカ娘』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』といったここ最近のアニメ作品、さらには、初音ミクといったゼロ年代を代表するキャラクターと結びつけることのできる議論を展開したと思っています。
ここ最近のアニメ作品との関わりという点では、おそらく編集者の方が意を汲んでくれたのだと思いますが、僕の文章の前後に、『けいおん!』や『ひだまりスケッチ』を論じた文章があるので、そうした他の論稿も参照してもらえると、ゼロ年代の終わり、あるいは、10年代の始めというこの時期にあって、僕が『エヴァ』について書く必要のあったその必然性を実感してもらえるのではないかと思っています。
『アニメルカ vol.3』の詳細については、以下を参照してください。
『アニメルカ vol.3』(特集:アニメ表現論) 目次
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