『ニルスのふしぎな旅』についてのメモ

 『ニルスのふしぎな旅』のアニメ(1980-1981年、スタジオぴえろチーフディレクター:鳥海永行、全52話)を最終回まで見た。
 このアニメ作品では、動物の動き(とりわけガンたちの動き)が描出されている。動物の動きを描出すること、ある種の自然を描き出すことが、アニメーションの欲望として、間違いなく存在しているように思える。
 自然を描き出すというのは、そこに自然からの断絶があるということ、断絶した自然をアニメーションという形で再現しようとすることでもある。そうした意味で、自然を描き出すことは、人間の再自然化と関わっている。
 自然からの断絶、人間の再自然化ということで言えば、そこに母という主題が入り込んでくるのは必然的である。『ニルス』の物語は、再自然化と自然からの断絶という物語の展開のうちに、母からの離脱という主題を含みこむ(端的に言えば、そこで、子供から大人へという成長物語が展開される。しかし、この成長物語を単に道徳的な水準で、乱暴者が大人しくなった(馴致された)というふうに捉えるべきではないだろう。『ニルス』において成長の主題はいくつかの位相を持つ。結婚し子供を持ち父となったガチョウのモルテンの物語もそのひとつである。そうした個々の物語とは別に、人間と動物との関係、人間と自然との関係が問われていることは間違いない。つまり、人間的なものとは何か、ということが問われている)。
 ニルスは家から離れ、再び家に戻ってくる。ここでの周期を形作っているのは渡り鳥たちの運動である。ニルスは小さくなることによって、人間と動物との狭間に位置する。動物たちとコミュニケートできるようになる。つまり、そのことによって、ある種の再自然化を達成する。
 しかし、小さくなることによって、ニルスは居場所を失う。彼は人間でもないし動物でもない。ニルスは人間と動物を結びつけようとするが、動物になりきることはできない。ニルスは道具を使用し、その道具の使用が動物たちを助けもするが、火の使用に代表されるように、動物たちとの断絶をも強調する。
 そういう意味では、再自然化の試みは失敗せざるをえない。ここには、母からの切断がある。
 イヌワシのゴルゴの存在が重要である。このイヌワシは他の動物たちと仲良くしようと、自然の法則、自らの本能を曲げて行動しようとする。彼は兎を食べずに魚を食べる。彼は本能を曲げて、アッカ隊長率いるガンの群れに付き従おうとする。しかし、そうした彼の意思とは裏腹に、彼の本能は本来のワシに近い行動を促す。彼は最終的には兎を食べるようになる。アッカとゴルゴとの別れを決定づけるのは、こうした意味では、自然の力である。
 しかし、人間はこんなふうには行かないだろう。むしろ、人間においては、自然化されないというところに、母との別れがある。ニルスは再び人間になることによって(大きくなることによって)、アッカ隊長たちとコミュニケートすることができなくなり、そこで必然的な別れが生じる。
 『ニルス』という作品の大部分を占めるのは動物たちとコミュニケートするシーンだ。そこにアニメーションの領野がある。動物たちの視点、人間を相対化する視点がそこにはある。
 ニルスは動物たちと話すだけでなく不思議な出来事(夜に銅像が動くなど)を何度も経験し、昔の物語(巨人たちの話)を聞いたりもする。そこで問題になっているのは、言ってみれば、世界の豊かさといったものであり、そうした領野にアニメーションは介入するが、『ニルス』という作品全体は、そうした豊かさからの決定的な断絶を印づける。
 アッカ隊長たちガンの群れは空に飛び立ち、ニルスはただそれを見送ることしかできない。ここから人間の世界が始まるわけだ。