貧しい日本文化の表現としてのアニメーション

 現在、日本のみならず、全世界が経済危機という名の荒波に飲み込まれているわけだが、そんな時代状況だと、今後日本はいったいどんな国になっていくのだろう、というような日本の行く末のことを考えないではいられない。しかしながら、このような懸念を、僕は、昨日や今日になって急に抱いたわけではなく、90年代後半からずっと抱き続けてきたと言える。経済的な繁栄が頭打ちした日本に明るい未来はないのではないか、という不安をずっと抱き続けてきたのだ。


 しかし、そもそもの日本国というものを考えたときに、日本というのは、豊かな国であるというよりも、どちらかと言えば、貧しい国と言えるのではないだろうか? こういうことを、僕は、しばらく前から、考え続けている。もちろん、日本は経済的に豊かな国であったし、現在もそうだと言えるだろう。そういう点では、日本はまったく貧しくはないわけだが、しかし、そのような経済的な豊かさすらも、日本という国の根源的な貧しさの表現とすら見えてしまうところがあるように思えるのだ。つまり、根源的な水準においては日本は貧しい国であるのだが、そのような根源的な貧しさを覆い隠したいがために日本はこれまで必死になって豊かになろうとしてきた、というような印象を受けるのである。


 日本は、経済的には豊かかも知れないが、文化的には貧しい国なのではないか? そのようなことを思ってしまうのは、僕が昔から、西洋文化への憧れを抱き続けてきたからである。文学にしろ思想にしろ、映画にしろ音楽にしろ、あらゆる文化的な産物において、日本は西洋に劣っている(ように見えてしまう)。西洋の文化には歴史的な深さがあり、そのような意味での蓄積や文脈がしっかりとあるのに対して、日本の文化に窺うことができるのは、断続的な輸入史、つまり、海外から輸入された文化を「日本風に」アレンジしたその歴史だけである。


 だから、僕は、西洋の文化は本物であるのに対して、日本の文化は偽物である、というような印象を抱いてしまう。日本の文化は、古くは中国文化のコピー、新しくは西洋文化のコピーにすぎない。このような劣等ナショナリズムとでも言うべき観念を僕が強く抱くようになったのは、そもそも、僕の存在自体が不安定であり、本物ではなく偽物の存在のように思えたところがあったからだと言える。このことはもちろん個人的な問題であるが、しかし、それを一般化することもできるように思える。


 僕の存在の偽物性は、都市生活の問題とサブカルチャーの問題という二つの側面に関わっている。


 都市生活の問題というのは、つまり、僕自身の生活というものが土地というものに、さらには地域共同体というものに、極限的には家族というものに、まったく根づいていないということである(もちろん、これらのものから何の影響も受けていないわけではないが、家や土地というものと僕の存在とがしっかりと結びついているわけではない)。このことは、東京という平板化された都市の風景が大きな影響を与えているように思える。似たような形をした家屋やビルがどこまでも切れ目なくのっぺりと続いていくという東京の風景。そんな風景の中、隣近所との付き合いもほとんどなく暮らしていると、いったい自分はどこに生きているのだろう、というような疑問に捕われることがしばしばある。つまるところ、僕には、生活という名に真に値するものがまったくない、と思わざるをえないところがあるのだ(こうした違和感について、僕は、このブログで、『孤独のグルメ』を題材にして少しばかり都市生活論を展開した)。


 もうひとつはサブカルチャーの問題である。そんなふうに安定した土台を持たない僕にとって、最も身近な文化としてあったのがサブカルチャーである。サブカルチャーが僕の素地を作ったとまでは言えないが、マンガ、アニメ、ゲームといったものが僕に様々な教養を与えた、と言うことはできる。つまり、世界と自分とを結びつける一種の神話として、そのようなサブカルチャーが機能したという側面があったわけである。


 しかしながら、僕は、そんなふうにサブカルチャーを享受する一方で、そのようなサブカルチャーの偽物性というかジャンクさにうんざりしていたところもあった。問題は意味の強度とでも言うべきものであるが、サブカルチャーが与える世界の説明原理は、当然のことながら、非常に薄っぺらいものであり、そのような薄っぺらさに我慢できないところがあったのである。それゆえに、僕は、より本物らしく見えるものを求めて、文学や哲学に接近していき、西洋の文化に出会うことになった。


 西洋の文化は、基本的に意味によって構築されている世界であり、様々なものに意味を与えることによって、世界に起伏をもたらしていく文化だと言える。そこに立ち現われるのは、平板な世界ではなく、奥行きのある世界である。


 だが、しかし、そんなふうにして西洋の文化に親しんでいくと、今度は、西洋の文化に馴染むことができない自分自身を発見することになる。西洋の文化が培ってきた意味の世界は、これまでの長い歴史から生み出されてきたものであって、一朝一夕に出来上がったものではない。従って、そのような歴史を共有していない僕には、絶対に踏み越えることのできない一線が存在する。西洋人の真似をすることはできるだろうが、それは、まさに、コピーするということにすぎない。


 自分はやはり日本人であり、本物になることができない偽者、オリジナルではないコピーである。そういうことを自覚していったときに再発見することになったのがサブカルチャーである。サブカルチャーの持つジャンクさやいかがわしさに強く惹かれるところがあった、ということである。


 だが、しかし、そんなふうにして、サブカルチャーの偽物性に自分の存在の偽物性を見出しそれを肯定するだけであったら、それは、凡庸なナショナリズム、凡庸な日本回帰以外の何ものでもないだろう。僕は、別段、アイデンティティの根拠を求めているわけではない。むしろ、このアイデンティティの希薄さを問題にしたいと思っているだけである。それゆえ、僕は、マンガやアニメを素晴らしい日本の文化として誇りたいとも思わないし、逆に、マンガやアニメを粗悪な偽物だと言って否定したいとも思わない。ただただ僕にできることは、このような貧しい文化環境の中にあって、その貧しさに自覚的であり続け、その貧しさについて考え続けていくことだけである。


 そうした点で、日本のアニメなどというものは、まさに、そのような貧しさが刻印された日本の文化的産物以外の何ものでもない。ここのところを僕は激烈に強調したい。


 今年は手塚治虫生誕80周年らしいが、手塚治虫の作ったアニメにしろマンガにしろ、そこには、ディズニーという本物の西洋文化を再現することも反復することもできなかった日本の貧しさが刻印されていると言える。つまり、今年手塚治虫を回顧するということは、手塚治虫を現在の日本のサブカルチャーの父として称揚することではなく、日本の貧しさを一身に背負った義父としてそのうちにある矛盾や葛藤や屈折を徹底的に暴き出すこと、それだけしかないだろう。


 ディズニーから手塚のマンガが生まれ、そのマンガをアニメ化したのが1963年の『鉄腕アトム』なのだから、日本のTVアニメなどというものはコピーのコピーであり、まったくひどい粗悪品にすぎないと言える。


 こんなふうに日本のアニメのことを僕がひどく言うのは、僕も含めたわれわれ日本人が、過去にあったことをすぐに忘れてしまう忘却癖という名の病にかかっているからである。この忘却癖は、言い換えるのなら、偽物をすぐに本物と思い込んでしまうという、そのような混同癖であるとも言える。よく中国や韓国のアニメを日本のアニメのパクリだと言って非難する言説が見受けられるが、そんなふうに他国の作品を容易に非難できるのは、自国の文化的貧しさを忘却しているからに他ならない。僕もまた、素晴らしい日本のアニメーションに出会うと、そうしたアニメーションが根源的に持つ文化的貧しさをついつい忘れてしまって、日本のアニメを本物の文化だと思ってしまうことがある(このブログにも、そのような勘違いに基づいて書かれた文章がいくつもある)。


 ここで僕が述べていることについて、そもそも文化的な産物を本物と偽物とに分けて語っているのがおかしい、と言って非難する人がいるかも知れない。確かに、何がオリジナルであり、何が本物なのかを決定することは難しいし、僕としても、これが本物だというものを提示したいわけではない。むしろ、僕が強調したいのは、本物になることを夢見ながらも、本物になることができずに、貧しさの中に甘んじなければならない、そのような状態それ自体がひとつの表現になる、ということである。そして、日本のアニメーションは、そのような貧しさを表現としてきたところが間違いなくあり、僕としては、そのような歴史的な積み重ねを積極的に評価したいと思っている。まさに、そのようなところが、日本のアニメーションを評価するときの明確な基準になる、ということである。


 日本のアニメは貧しさの表現であり、このことは、表現が貧しいということと必ずしも同義ではない。一作品の動画枚数を減らすこと、口パクやバンクシステムといったものは、それ自体は、間違いなく、表現の貧しさを示している(手塚治虫のマンガに『フィルムは生きている』というものがあるが、そういう意味では、日本のアニメは死んでいる)。しかしながら、そうした貧しさが、何か別の新しい表現を生み出す切っ掛けとなってきたということもまた間違いないことである(例えば止め絵の技法)。ここには、文化的な貧しさの問題と共に、経済的な貧しさの問題もまたあるわけだが、そのような複数の意味での貧しさがこれまでの日本のアニメには刻印されているわけであり、そのことは現在もまた変わらない。


 例えば、最近のアニメーションにおいては、作画のクオリティの高さが要求されるところがあるが、こんなふうにして、作画の良さや悪さが問題になる時点で(作画の良さというものがアニメーションを評価する重要なファクターとなっている時点で)、そこに文化的な貧しさの問題が明確に見出せるように思える。つまり、そのような言説においては、アニメーションの本義であるはずの動きの問題が括弧に入れられ、その動きの問題を補うかのように作画の問題が浮上している、といった構図が見受けられるのだ。作画のクオリティの高さがアニメ作品全体のクオリティの高さを底上げする、そんな役目を担わされているところがある、ということだ。


 今日においては、デジタル技術の発達がわれわれの貧しさを覆い隠す便利な道具として使用され続けている。それは、貧相な料理を美味しく見せるために、過剰な装飾の施された美麗な皿を用意する、といった印象を与える。中身の貧弱さを補うために、いかにしてその見た目を取り繕うか、ということが問題になっているのである。


 しかしながら、僕は、そのことをもって単純に、様々なアニメ表現を否定したいとは思わない。というのは、貧しさを覆い隠すことと貧しさを表現することとがほとんど同義となるような瞬間があるからだ。ごまかしたりはったりをかましたりすることがひとつの表現になることがある。中身がないことを単に覆い隠しているのではなく、中身がないことそれ自体がひとつの表現になる。少なくとも、『新世紀エヴァンゲリオン』はそのような自覚があった作品であり、オリジナルを持ちえていないことがひとつの表現になりえていた。


 このような歪み屈折をわれわれはアニメーションの中に見出していく必要がある。こうした歪みや屈折は、アニメーション制作が厳しい労働環境の下で行なわれているということだけを示しているのではなく、われわれの文化が根源的に貧しいことをも、常に資源を別の環境に求めなければならないという文化的な貧しさをも示している、ということを読み取っていく必要がある。


 最初に提示した話に戻ると、僕は、このような日本の根源的な貧しさを自覚しない限り、もはや何も始まらないと思っている。だからと言って、自らの貧しさに居直ってだけいても仕方がない。必要なのは、感情的な反応ではなく、ただただ冷徹な現状認識だけであるように思える。言うなれば、いったい現代において何が問題になっているのかということは、すでに様々なサブカルチャー作品に表現されている、ということである。このことは、それぞれの作品のテーマとして表現されているというよりも、作品の持つ歪みや屈折それ自体がそうした表現になっているということである。こうした表現に気づくためには、サブカルチャーの貧しさ、さらには、日本の貧しさについて忘れないでおくことが必要である。僕自身の備忘録としてもここに明確に記しておきたい。