アニメ『鉄のラインバレル』は今日のリアリティにどのように立ち向かったのか?

新作アニメ『鉄のラインバレル』の第1話を見て思ったこと
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20081010#1223611140


 アニメ『鉄のラインバレル』が放送され始めた当初、いろいろな期待を込めて、上記のような記事を書いたわけだが(この記事ではコミュニケーションという観点から『ラインバレル』を問題にした)、それから5ヶ月ほどが経って、現在自分がこの作品に対してどのような評価を下しているのかということをこれから書いてみたい。


 まず、大きな誤算だったのが、第1話だけしか見ていなかった当時の僕が、この作品を完全にシリアスな作品だと決めつけていたことである。言い換えれば、この『鉄のラインバレル』という作品を正しく評価するためには、この作品のギャグアニメ的な側面というものをしっかりと把握しておく必要がある、ということである。


 第1話だけを見ても、この作品が一種のギャグアニメになっているとは誰も思わないことだろう。しかし、第2話以降を見ていくと、この作品が、完全なギャグアニメとまでは言えなくても、シリアスな面よりもギャグのほうに重きを置いている作品であるということが徐々に分かってくる。こうしたことを十分に踏まえずに、この作品で提起されている様々な問題を、言うなれば、真面目に取り扱うと、いろいろな齟齬が出てくるように思う。


 基本的にはシリアスな作品であるが、ある局面や場面(日常生活のシーンなど)になるとギャグが入ってくる、というような作品はたくさんあることだろう。『ラインバレル』もそのような作品として理解することもできるだろうが、しかし、僕は、この作品にとってギャグという要素は、もはや作品の本質と切り離せないものになっているように思う。それは、『ラインバレル』という作品のリアリティのなさとでも言うべきものに対する一種の調整というか、ごまかしとしてギャグが機能しているということである。つまり、完全にシリアスに真面目に物語を展開してしまうと、あまりにもその物語が嘘臭くなってしまうので、そうした嘘臭さを取り繕うためにギャグが必要になってくる、ということである。


 だが、そのような調整が上手くいっているかというと、とてもそうは思えない、というところが『ラインバレル』の欠点というか、その試みの失敗しているところである。もし『ラインバレル』が終始一貫してギャグ作品だったとすれば、この作品も、それなりに成功したものになっていたのではないかと思うのだが(成功したものになったとしても、冒険的な試みという意味での斬新さは失われてしまったかも知れない)、基本的な物語展開はやはりシリアスなので、ギャグを多用したツケが後々になってシリアスな展開のほうに回ってきてしまっている、というところがあるように思える。つまり、『ラインバレル』は、物語の虚構性と今日のリアリズムとを対決させているところがあるわけだが、物語に対する不信とでも言うべきものがやはり優ってしまい、常識的なリアリズムに屈してしまっているところがあるわけである。


 『ラインバレル』が提出したラディカルな問題提起とは、巨大ロボットアニメの不成立とでも言うべきものではなかったかと思われる。つまり、旧来の巨大ロボットアニメという作品形態が今日においてはもはや成立しないということを、巨大ロボットアニメの中で問題化するというアクロバティックなことをやろうとしたのではないかと思われる。同種の試みは、『天元突破グレンラガン』でも、やや違った形でなされていたと言えるが、『ラインバレル』は『グレンラガン』よりももっとシニカルな形でそれを行なったと言える(『グレンラガン』のほうは、旧来の物語の型をベタな形であえて反復するというアイロニカルな距離感が見出せる)。


 いずれにしても、ここで問題になっているのは、ある種のリアリティである。今日の作品には、ある種のリアリティが過度に要求されているところがあるように思える。そして、そんなふうにリアリティを追求していくと、必然的に作品世界の規模も狭く小さいものになってしまうが、それと同時に、物語の大きさというものも小さいものになってしまうように思える。巨大ロボットアニメという作品ジャンルのうちには、より大きな世界でより大きな物語を展開しようという傾向性があるように思えるのだが、こうした傾向性が今日のリアリティの要求と衝突するところがある、というわけである。


 とりわけ、今日において、リアリティの失われているのが「正義」という言葉であるだろう。「正義」という言葉が嘘臭く見えるのは、個人の行動が私的な動機からではなく公的な動機から生み出されるということをわれわれがもはや素直には信じることができなくなっているからである(われわれは公的な振る舞いの背後にすぐに私的な動機を読み取ってしまう)。従って、今日において正義をなすための最良の方法とは、悪をなすこと、つまり、最初から私的な動機から出発していることを隠さずに、その上で、そのような私的な動機を越えることを行なうことである。これこそが、今日において、正義の味方よりもダークヒーローのほうが魅力的に感じられる理由であるだろう(『ラインバレル』においても、正義の実現を目指していたのは、世界征服という目標をあえて掲げていた加藤久嵩のほうだったと言える。終始メランコリックな加藤の表情と喜怒哀楽の感情を剥き出しにする早瀬の表情とは、まったくの好対照だと言える)。


 このような状況において、あえて、正義の味方と悪の組織との闘いを描こうとしたのが、『ラインバレル』の面白いところである。もちろん、ただ単にそのような闘いの物語を提出するだけでは不十分だろう。今日のリアリティと対決するためには何らかの仕掛けが必要になってくるわけだが、『ラインバレル』が持ち出してきた仕掛けとは、「正義の味方」を名乗る主人公が徹底的に私的な動機に突き動かされているというものである。つまるところ、「正義」という言葉の嘘臭さを体現した人物として、早瀬浩一という人物が登場してくるわけである。早瀬浩一が「最低」の人物として描かれるのは、まさに、私的な動機と公的な使命とを混同しているからに他ならない(正義の味方になりたいという早瀬の願望は、矢島英明と新山理沙子という幼友達たちとの狭い関係の中から生じたものである。この願望が意味しているのは、矢島に一方的に守られるだけだった自分自身の無力さやそのことから生まれた劣等感を一挙に拭い去りたいということである)。


 おそらく、この作品の課題として、極めて嘘臭くなった「正義」という言葉にいかにして本当らしさを回復させるのか、ということがあったと思われるが、その課題が達成されているとはとても思えない。結局のところ、この作品は、今日のリアリティとの対決を避けてしまい、むしろ、今日のリアリティに支えられる形で物語を成立させてしまったところがある。大文字の正義とか大文字の善などというものが問い直されることなどまったくなく、ある種の善が提示されているとしても、それは、ありきたりの道徳的な価値観が小さな善として持ち出されているに過ぎない。


 このとき、ギャグの導入は、今日のリアリティの介入を一時中断させるという役割を果たしていたわけだが、こうしたギャグの麻酔作用が、今日のリアリティとの対決という課題そのものをも忘れさせてしまったようである。そして、結局のところは、今日のリアリティが物語の虚構性に勝利するという結果に終わってしまったというわけである。


 現在放送中の巨大ロボットアニメとしては、『ラインバレル』の他に、『起動戦士ガンダム00』という作品もあるわけだが、この作品についても、いずれ余裕があったら、同種の観点から問題にしてみることにしたい。しかし、そんなことをするよりも、現在のリアリティの問題を扱うのなら、もっと別のジャンルの作品を取り上げたほうがいいのかも知れない。それは、例えば、物語よりもキャラクターを重視している一連の萌えアニメ美少女アニメ)というジャンルである。美少女キャラクターというのは、様々な意味で反リアリズムなわけだが、そのようなリアリティのない存在が今日のリアリティの過度な要求とどのように折り合いをつけているのか、といったことを考えたほうが生産的かも知れない。僕の見たところ、京都アニメーションの作品などは、そのような折り合いを非常に上手くつけているように思えるのだが、そのようなことを問題にしてみるというのは面白いかも知れない。このことは今後の課題としたい。