昨年12月1日に開催された文学フリマ東京39。そこで頒布された『未完了域(第1号)』という同人誌に僕は、とある論考を寄稿した。「ホラー、ニヒリズム、共同体──『ひぐらしのなく頃に』をめぐって」。このタイトル通り、ノベルゲーム『ひぐらしのなく頃に』を、ホラー・ニヒリズム・共同体という3つの観点から論じた文章だ。その内容を自分でちょっと解説してみたい。
もちろん文章のすべてを説明する余裕はない。なので、第1節「人間は人間にとって狼である」のところだけ解説してみる。「あとがき」的な記事だと思ってもらえればいい。
まずこの論考を書くにあたってどのような準備をしたか。『未完了域』第1号のテーマは「ホラーのある生活」だった。なので、とりあえず、どういうホラー作品があるのかをネットで調べてみた。そして、その中でどの作品を論の中心に据えられるかを考えた。最初は「別に特定の作品を中心に据えずに、広くホラー一般で書ければいいかもしれない」と思った。もちろんホラー作品は山のようにあるので、すべてをざっと見渡すことすらも不可能に近いのだが。
そうやって調べていく中で「ピン」と来たのが『ひぐらし』だった。このゲーム作品は、もちろん名前は知っていたが、これまでプレイしたことはなかった。アニメも見たことがない。この機会を逃したら、もうプレイすることはないかもしれない。そうした動機から『ひぐらし』をやってみることにした。正編だけで全8章。かなりのボリュームだ。3か月くらいの間、『ひぐらし』漬けになった。
アニメも見た。最初の『ひぐらしのなく頃に』から始まって、『解』、『礼』、『煌』、すべて見た。しかし、原稿の締め切り近くになったので、新作の『業』と『卒』は途中までしか見られなかった(文章を書き終わってから最後まで見た)。結局アニメの話を原稿に盛り込むまでには至れなかった。
ゲームの『ひぐらし』をプレイしてまず思った。この作品のテーマは「排除」ではないのか、と。村八分、仲間外れ、いじめ。人はしばしば、集団内の結束を強めるために、成員の誰かを排除しようとする。仮に誰も排除していないような集団があったとしても、そこに入れない者がいるという点で、潜在的には誰かを排除している。排除のないグループやコミュニティはない。しかし本当にそうなのか。『ひぐらし』はそこを問いかけている。
僕は、「疑心暗鬼」という言葉の出典から、自分の論考を始めた。この四文字熟語は、『ひぐらし』に出てくる重要なワードだ。他人への過度の不信によって自分が「鬼」のような存在になる。これは集団から排除された者が、あるいは実際に仲間外れにされていなくてもそう疑っている者が、「鬼」になってしまうということである。誰かに攻撃されている人間が(単にそう思い込んでいるだけの人も含めて)、それゆえにこそ、もっと強い攻撃者になってしまう。
他者不信とそこから生じる敵対関係。こうした人間にとっての負の要素をあえてモチーフにしたゲームがある。「人狼ゲーム」である。僕の論考を読んだ人の感想をいくつか見たが、そこで言及されていたのも、「人狼ゲーム」を論じた箇所だった。「人狼ゲーム」とは、簡単に言ってしまえば、集団の中から「敵」を見つけ出し、排除するゲームである。
コロナ禍に流行った「人狼ゲーム」『Among Us』も論考の中で名前を出した。しかし、コロナ禍に限らず、昨今のSNS(旧ツイッターのような)では、「人狼ゲーム」めいた排除ゲームが日々行われているという印象を受ける。誰かを「敵」と見なし、彼/彼女を攻撃することによって、集団の結びつきを強めようとする。しかし、こうした排除に基づいた連帯には一時的な効果しか望めないだろう。たとえその行為が「正義」に基づいているとしても、そこから持続的な共同体が立ち現れるとはまったく思えない。
こうした議論の流れの中で僕は、ゲーム理論の話も引き合いに出した。十分に調べる余裕がなかったので、わずかな指摘にすぎないが、「囚人のジレンマ」に見られるようなゼロサムゲームは、連帯や協力をとても難しくさせる状況だと言える。ゼロサムゲームとは、相手の損失が自分の利益になる状況、逆に言えば自分の損失が相手の利益になる状況である。「囚人のジレンマ」で最も高い利益を得るためにはお互いが協力する必要があるが、もし相手に裏切られたら、逆に最大の損失を自分が被ることになる。こうした状況での最適解は、相手の裏切りを前提とすることだ。つまり相手を信じないことが「正解」になってしまう。
SNSを始めとしたネットにおける議論もまた、ゼロサムゲームのような、「AでなければB、BでなければA」という二者択一的な排他性が支配しているように見える。もしかしたら、そこには、「AもBもともに」という可能性があるかもしれない場合だったとしても、熱狂した論争の中にあっては、「あれかこれか、奴らか俺たちか」という排他的な関係に問題が落とし込まれる。これは裏を返せば、多くの人がそれだけ苛酷な競争状況に追い込まれていて、分断・孤立を余儀なくされている、ということなのだろう。
ではどうすればいいのか。僕も論考の中で、何か具体的な解決方法を示しているわけではない。いつの間にかこの世に生まれてきて、いずれはここから去っていくという誰しもが置かれている偶然的な立場、いずれは自分の手にしているものを誰かに譲り渡していく必要があるという暫定的な立場を常日頃から自覚しておくことが、「他人がそこにいてもいい」という寛容を可能にするのではないか、といった程度のぼやっとした提案をしただけである。
論考に上手く組み込めなかったこととして、テッド・チャンのSF小説『あなたの人生の物語』の台詞「ノンゼロサムゲーム」がある。この短編小説の詳しい説明をしている余裕はないが、簡単に言ってしまえば、宇宙人の特殊な書記法(文字の書き方)を学ぶことによって人間の思考法が変化していく(ある種の予知能力を得るようになる)という話である。「ノンゼロサムゲーム」という言葉は、物語の展開とはあまり関係ないところで出てくるのだが、おそらく作品全体の内容と関わっている。それは、われわれの基本的な思考態度の変更を促す、漠然とした指針であるように思うのだ(『あなたの人生の物語』は僕の好きな小説なので、機会があったらまた、詳しく取り上げてみたい)。
ここまで読んで、もし僕の論考に興味を持った人がいたとすれば、ぜひ何らかの手段で『未完了域』を入手して、読んでほしいと思う。