なぜ読書会を始めたのか、その経緯と動機の説明

僕は今年2025年から「セカンドアフター読書会」と題した読書会を、月一回のペースで、始めている。その経緯と、どのような理由から読書会を始めようと思ったのかという動機について、ちょっと書いてみたい。

 

読書会は今のところ、第1回を1月4日に、第2回を2月1日に開催した。課題本はそれぞれ、江藤淳の『アメリカと私』、丸山真男の『日本の思想』。読書会のテーマは戦後日本人の「自己意識」であり、思想家や批評家の書いた本、あるいはアニメやマンガなどのサブカルチャー作品を取り上げて、日本人が自分たちをどのような民族と考えてきたのかを検討してみるというのが主旨である。

 

僕は、昨年(2024年)の6月から、タルミチさんという方が主催する「身体論読書会」に参加している。そこで僕は、オンラインで読書会を開催する方法を学んだ。半年参加して、だいたいの感じが掴めてきたというのもあり、自分でもやってみたいという思いが出てきた。これが読書会を自分で始めるまでの直接的な経緯であるが、動機は別のところにある。ずっと以前からの自分の活動と関わりがある。

 

僕は、昔から読書会や勉強会がとても好きだった。大学院生の頃は、週に2、3回くらいの頻度で、読書会や勉強会を開催していた。その頃はネット環境も今ほど充実していないので、当然すべて対面である。参加者は知り合いや勉強仲間がメイン。初めて会うような人とやる読書会にも参加していたが、基本的には気の置けない知り合いとやることが多かった。

 

読書会や勉強会をあまりしなくなったのは、同人誌を発刊して以降だったように思う。僕は2011年に「セカンドアフター」という同人誌を発刊した。だが、2013年に第3号を出したときに、行き詰まりを覚えた。この行き詰まりがどういうものなのか、それは今でもはっきりしない。簡単に言ってしまえば、自分の主張したいこと、自分が面白いと思っていること、自分が重要だと思っていること、そういうものを形にしたとしても、それが他の誰かに届く感じがしなくなった、ということだ。何にしても、同人誌を出したいという意欲があまりなくなり、文章を書くことだけに専念していた。

 

しかし、同人誌を出したいという気持ちが完全になくなったわけではない。出したいという思いはやはりあった。だから、知り合いに相談に乗ってもらったり、原稿の依頼予約のようなものとしたりして、準備だけはしていた。そして2022年に、10年ぶりくらいに、「セカンドアフター」第4号を出すことができた。しかし、これは2013年の行き詰まりが解消したからではまったくない。

 

次の第5号をどうしようかと今も考えてはいる。具体的なアイデアもあるし、どういう人に依頼したらいいのかという目次の構想もある。しかし他方で、「出したからどうなるんだ」という虚無感も拭い去れないままでいる。最近の文学フリマの盛り上がりから考えて、出せば一定数売れるという目測も立つ。だがそのことが自分に十分な満足をもたらすこともないだろうという予感もある。

 

ある時ふと思った。読書会や勉強会を開催し、その成果を同人誌にまとめればいいんじゃないか、執筆者=参加者と問題意識を共有すれば、同人誌の内容に統一性を持たせられるし、そうすれば質の良い同人誌が作れるのではないか、と。

 

この考えはこれまで実行に移したことはないし、今回読書会を始めるにあたっても、こういう目標を掲げてはいない。同人誌を出すために読書会を開催するというふうに目的をはっきりさせてしまうと、読書会がキツイものになってしまうだろう、という懸念がある。どちらかと言うと、僕はゆるい感じで読書会をやりたい。そうしないと長続きしないだろうと思うのだ。

 

読書会や勉強会の良いところは、参加者が、それぞれの関心に沿ったなんやかんやを持ち寄ってくるところだ。つまり、僕が設定したり計画したりしたのではない何かが外からやってくる。「身体論読書会」では、自分ひとりだったら手に取ることもないような本を読むことができた。自分が関心を持たない話もあれこれと聞いた。そもそも僕は「身体」に何の関心も持っていない。

 

そういう外からやってくる何かを僕は、自分が開催する読書会にも期待している。読書会で得たことが、今後の同人誌制作にどれだけ影響を及ぼすかはまだわからない。あまり急いで結果を求めるのはよくないだろう。特に何もないまま、読書会を突然やめるかもしれない。しかし、自分が2013年ごろから感じている行き詰まりが少しでも解消できればいいとは思っている。そのための何らかのヒントを得たいとは思っている。そうした意味で、ある種の「ゆるさ」が今の自分にとって必要なのだ。