交換可能な生としてのレプリカの生――アニメ『テイルズ オブ ジ アビス』について

 2008年10月から2009年3月にかけて放送されたアニメ、『テイルズ オブ ジ アビス』について、ちょっと思うところを書いてみたい。


 このアニメの原作は2005年に発売されたゲームであるが、僕は未プレイである。


 ゲーム原作のアニメ作品にありがちであるが、ゲームとアニメという異なったジャンルの溝をどのようにして埋めるのかということが、この作品においても大きな課題であったことだろう。RPGのアニメ化にとって重要なのは、ゲームのプレイにおいては非常に地味な時間(しかし重要な時間)、イベントとイベントとの間を繋ぐ時間、経験地稼ぎや情報収集や移動の時間をどのように再現するのかということではないかと僕は思うのだが(というのは、こうした時間がゲームの物語をプレイヤーにとって生きたものにすると思うからだが)、この『アビス』のアニメにおいても、その点はあまり上手くいっていないように思えた。少なくとも僕は、イベントシーンを繋ぎ合わせてひとつのアニメを作ったという印象をどうしても拭い去ることができなかった。言い換えれば、このアニメは原作未プレイ者にとっては非常に敷居が高いアニメだ、ということである。


 さらに言えば、『アビス』はファンタジー作品ということもあり、その世界観を理解するのにもひとつの困難が伴う。ゲーム作品の場合なら、世界観や設定というものは、そのプレイに物理的に影響を与えることになるだろうから(魔法やアイテムのレベルで)、そういうレベルから、ある作品の世界観を実感することが可能になるだろうが、アニメの場合は、世界観や設定を基本的に物語の水準だけで受け入れざるをえないので、視聴者がそれを容易に受け入れるためには、いくつかの工夫が必要になることだろう。そういう面でも、このアニメはあまり上手くいっているとは思えなかった。


 しかしながら、このような難点があるとしても、そんなことを気にさせないぐらいに興味深い問題がこの作品では提起されているために、僕は、この作品を非常に良質なアニメ作品として評価したいと思っている。単純にアニメとしてのクオリティも悪くはなかったと思う(非常に丁寧に作られた(おそらく原作のファンに向けて)アニメ作品という印象を受けた)。


 以下、この作品で提起された問題に関して、少し考えてみたい。


 この作品で提示された問題、それは、端的に言えば、レプリカの生といったものである。この作品では、レプリカという一種のクローン人間を生み出す技術が存在していて、自分がレプリカであることを主人公のルークが知ることになるのが序盤の山場となる。主人公のルークは貴族の子息であり、小さい頃に敵国の人間に誘拐されて、その誘拐された時点を境にして、以前の記憶を失っていたのだが、後に明らかになるのは、その誘拐されたときにレプリカとして作り出された人間だった、ということである。つまり、主人公はルークの偽者なのであり、別のどこかに本物のルークがいる、ということである。


 この偽者の存在という設定を僕は非常に面白いと思った。そして、この設定は極めて現代的であるとも思った。


 ひとつの見方からすれば、この作品には二人の主人公がいて、それぞれ二つの悲劇が存在すると言える。ひとつは、レプリカに自分の居場所を奪われたオリジナルの悲劇である。オリジナルのルークは、誘拐されて自宅に帰ったときに、すでに自分のレプリカが自分の居場所を占領しているのを発見する。つまり、オリジナルは、そのオリジナルという地位を剥奪され、自分の名前も捨てざるをえなくなる。彼はアッシュという新しい名前の下で新しい生を営まざるをえなくなるのである。


 自分の居場所を奪われた主人公、一種の貴種流離譚の主人公なら、様々な物語に登場することだろう。しかし、『アビス』においては、どちらかと言えば、レプリカの生のほうにその焦点が当てられているように思える。オリジナルの居場所を奪った偽者のほうが主人公であり、その主人公の悲劇が物語の中心となるというところに、非常に現代的な問題が見出せるのではないかと僕は思うのだ。


 それでは、レプリカの生の悲劇とはどのようなものだろうか。それは、言ってみれば、自分の居場所というものを世界のうちから完全に見失ってしまったものの悲劇だと言えるだろう。レプリカはオリジナルの場所を奪った存在であり、自分が今いる場所は本来なら自分がいるべき場所ではない、ということになる。それでは、自分のいるべき場所はどこにあるのかと言えば、それがまったく見出せない、言い換えれば、自分の存在は誰からも望まれたものではないと、そんなふうに生の基盤を見失ってしまうことがレプリカの生の悲劇だと言える(誰かに利用されるというレベルでは彼の生には意味があるのだが、これは、まさしく、(生それ自体が目的であるという意味での)目的としての生ではなく、手段としての生である)。


 レプリカの生を特徴づけるために、『アビス』の物語と非常によく似た話、つまり、マーク・トウェインの『王子と乞食』を引き合いに出してみよう。『王子と乞食』は、単純に言って、二人の人物がそれぞれの場所を交換する話である。外見がまったく同一である二人の子供、王子のエドワードと乞食のトムとがそれぞれの場所を入れ替える。そのような入れ替えによってどのような出来事が生じるのかという一種の思考実験を行なっているのがこの物語であるだろう。


 これに対して、『アビス』のほうでは、そうした場所の交換は起こらない。オリジナルとレプリカとの関係性においては、一方が他方の場所を奪うという事態だけがそこに生じることになる。


 そもそも、ここで問題になっている場所とはどのようなものなのか。それを特徴づけるのはなかなか難しいが、問題になっているのは、人間はその誕生と共にこの世界のうちにひとつの場所を有することになる、ということである(『アビス』の主題歌、BUMP OF CHICKENの歌う『カルマ』で問題になっているのも、そのような場所であるだろう)。より根源的に考えれば、この場所は、人間の肉体(生命)にも社会的なポジションにも還元されない、人間の存在の次元と言うこともできるかも知れないが、少なくとも言えることは、ただ単に肉体が存在しているということ、ただ単に生命活動を行なっているということが人間の生のすべてではないということである。つまり、人間の生を下支えしている場所が存在し、その場所が剥奪されるという事態が起こりうる、ということである(こうした問題意識を持っているからこそ、何人かの現代思想家は、生のうちにいくつかの区別をもたらしているのだろう。例えばアガンベンは、「ゾーエー」と「ビオス」というふうに生を区別している)。


 当たり前のことであるが、レプリカの生というのはフィクションの産物であり、自分と同一の存在が自分の場所を奪うことなど、現実的にはありえない。しかしながら、重要なのは、このレプリカの生というものが一種の比喩として何かを指示しているということであり、この生がどのようなリアリティをもたらしているのかということである。


 この点で、僕が今日的な生の問題として重要だと思っているのは、交換可能な生という水準である。人は誰しも異なっている、それぞれがそれぞれに固有の生を営んでいる、というふうに言うことは簡単である。だが、しかし、今日という時代は、そうした生の固有性を非常に実感しにくい時代でもあるのではないか、という気がするのだ。つまり、もし仮に自分がいなくても、誰か他の人が自分の代わりになりえる(自己の固有性とはそれぐらいの固有性である)というような交換可能性がリアリティを持っている時代なのではないかと思うのだ(こうした交換可能な生を代表するアニメキャラクターとは、間違いなく、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイである)。


 こうした交換可能性が多くの人をレプリカの生の状態に近づけていると言えないだろうか。つまり、もし自分の存在に固有性がないとすれば、他の人と交換可能な存在だとすれば、そもそも自分がひとつの場所を占めていることには何の必然性も存在しないことだろう。自分がひとつの場所を占めているということは極めて偶然的な出来事であることだろう。そうであるがゆえに、そこには、自分が無意識のうちにたまたま誰かの場所を奪ったというような、潜在的な負い目が生じる可能性がある。ここで立ち上がってくるのが、擬似的なレプリカの生とでも言うべき事態である。


 私がひとつの場所を占めていることのうちにひとつの排除が存在する。ここで排除された存在とどのような関係を構築していくのかということが、レプリカの生にとっては、課題であることだろう。『アビス』において課題になっていたことも、(レプリカが存在したせいで)オリジナルが喪失したもの、レプリカが損なってきたものをいったいどのようにして回復していくことができるのか、ということであったように思う。ここには、当然のことながら、回復不可能なものが存在する。実現することのなかったもうひとつの生が存在する。


 レプリカの生とは、その存在を望まれなかった者の生のことである。ここには、捨て子の生の問題がはらまれている。捨て子というのは極めて特殊な事態であるが、そうした特殊性を超えて、近年のいくつかのサブカルチャー作品においては、生の根拠を剥奪された者たちの生が描かれているように思う。


 バトルロワイアル状況における敗者の生、これもまた根拠を剥奪された生と言えるかも知れない。2009年1月から7月にかけて放送されていたアニメ『黒神』が描いていたのもそのような生、生まれたときからその敗北が印づけられていた者たちの生である。この作品では、同じ顔をした人間が世界には三人いて、そのうちのひとりがメインルートの人間(勝利者となる幸運な人間)で、あとの二人はそのメインの人間に幸運を吸い取られるだけのサブの人間となることが運命づけられていた(つまり、その世界では、幸運な人間と不運な人間とが予め決まっている)。そして、主人公はまさにサブの人間であり、自らの運命を何とかして乗り越えようとする人物として設定されていたわけだが、まさにそんなふうに敗者の人間の心性が描かれていたところに、この作品の現代性があったように思う。


 つまるところ、『アビス』の興味深いところは、こうした諸々の交換可能な生をレプリカという観点の下で取り扱ったところにあるのであって、そんなふうに自分の居場所を失った人間がどのようにして新しく自分のいるべき場所を作り出していくのかということを模索したところにあったと言える。


 しかし、交換可能な生にどのようにして価値を付与していくのかというのは非常に難しい問題である。『アビス』においても『黒神』においても、そこで提示されていた解決というのは、ある種、逆説的な解決だったように思う。すなわち、交換可能なものに交換不可能なもの、つまり、何らかの固有性を付与することがその解決になるのではなく、むしろ、逆に、その交換可能な立場を貫いていくことがその解決に繋がっていったように思う。言うなれば、そこでの解決とは、私的なレベルではその死を受け入れ、公的なレベルで新しい生を獲得する、というような解決であったように思うのだ。


 しかし、まさに、現代において問題であるのは、この公的な生というのが何を意味しているのか判然としないということである。『アビス』においても『黒神』においても、そこでは、世界の危機という大状況に巻き込まれる主人公の姿が描かれていたが、こうした大状況が見出しがたい(つまり共通の敵が存在しない)というのが今日の困難であるように思う。


 解決の困難さは別にして、生の基盤の希薄さを問題化しただけでも、『アビス』は、注目に値する作品であるように思われる。原作のゲームの『アビス』は、「生まれた意味を知るRPG」というふうに自己規定しているようだが、ここでいう「生まれた意味」とは、交換可能な生の意味、レプリカの生の意味、その存在が望まれなかった者の生の意味に他ならないだろう。つまり、ここでは、逆説的にも、生の無意味さの意味が問題になっていると言えるのである。そうした生の輪郭を、様々な問題と絡めながら、ファンタジーという形で作品化したところは、単純に、非常に面白かったと思う。