「エンドレスエイト」から立ち上がってくる倫理――平行世界の確率論的な倫理について

 先日まで、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメにおいて、八回にわたって、「エンドレスエイト」のエピソードが放送されたわけだが、ネットでの議論を少し見た限りでは、同じ内容の話を何度も繰り返して放送することに対する賛否が主に話されていて、物語内容についての解釈等についてはあまり話されていないという印象を受けた。そういうこともあって、ここでは、「エンドレスエイト」が八回にわたって放送されたことについてはいったん脇に置いて、まずは、その物語内容の側面から、この作品について考えていきたいと思っている。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品の興味深いところは、複数の視点、複数のパースペクティヴのギャップというものが、非常に上手く提示されているところである。この作品について、そこには、キョンの一人称視点しかないというふうに言うこともできるだろうが、キョンの一人称を取り巻く形で、他の登場人物のパースペクティヴも問題になっていると言える。


 「憂鬱」のエピソードで問題になっていたのは、ハルヒキョンとのパースペクティヴのギャップである。ハルヒは、基本的に、自分のやっていることに対して無知な人物として設定されている。ハルヒはこの世界を作り変える能力を持っているかも知れないのだが、自分がそうした能力を持っていることを意識してはいない。そういう意味では、世界を作り変えようとしているのは、ハルヒの意識なのではなく、ハルヒの無意識だと言えるだろう。


 ハルヒが世界の無意識というポジションを代表しているとすれば、キョンが代表しているのは、世界に内在しているひとりの人間の意識(限定された視点)というありきたりのポジションである。しかしながら、キョンハルヒが見ていないもの、ハルヒが意識できていないものを意識することができる。古泉、長門、みくるといった人物たちがもたらす知識によって世界の危機を認識し、その危機に介入することができるポジションにいるわけである。


 しかしながら、実に興味深いことに、世界の危機という大状況に直面しながらも、キョンがこの危機に対処するやり方というものは、極めて日常的である。大状況に対して大状況的に介入するのではなく、極めて日常的な行動によって、世界の危機に対処するのである。


 アニメで放送されたこれまでのエピソードを見ていると、キョンたちは世界の危機に何度も直面してきたように思えるが、しかしながら、ハルヒの意識上においては、ちょっとしたイベントと平凡な日常生活とを交互に繰り返すというささやかな生活を送っているだけであるだろう。これこそが、まさに、パースペクティヴのギャップであり、このギャップこそが『ハルヒ』という作品のテーマではないかと僕は思うのである。言い換えるのなら、『ハルヒ』のテーマとは、世界に内在しているという限定されたポジションから、いかにして、世界そのものにアプローチしていくのか、他者性といったものにいかにして触れることができるのか、私の生活や私の人生といった限定されたパースペクティヴをいかに超越することができるのか、といったことが問題になっているように思うのである。


 世界の危機を回避する役目を負った一種のヒーローであるキョンは、これまた興味深いことに、自分の周囲で起こる出来事に対して常に受け身な姿勢で臨んでいる。つまり、彼は、一種の断念を抱えた人物、世界からもたらされるもの(端的に言えば奇跡)に対して何の期待も抱いていない人物として描かれていると言える。こんなふうに極めて冷めた人物であるキョンが大状況的な危機に直面し、逆に大状況的な出来事に直面することを望んでいるハルヒのほうが、日常的な小さなイベントで満足しているというところが、この作品の構造の面白いところである。


 さて、以上のような基本的な枠組みを「エンドレスエイト」に接続すると、この「エンドレスエイト」というエピソードにおいては、ハルヒキョンという二つのパースペクティヴの他に、さらにもうひとつ別の視点が強調して描かれていると言える。それは、長門有希の視点、時空を超越した神の視点である。


 夏休み最後の二週間を、それだけで独立させて、永遠にループさせるという世界の危機をもたらしたのはハルヒであるが、彼女自身はそのことを知らない。つまり、ハルヒにおいては、世界の危機は存在しない。これに対して、世界に内在しながらも、この危機を何とかして回避させようとするささやかなプレイヤーがキョンである。そして、さらに、もうひとつの視点が付け加わる。それは、同じ時間が何度も繰り返されているという知識をもたらす視点、さらには、そんなふうに時間が何度も繰り返されているということを確証する視点である。こうした超越的な視点を代表しているのが長門なのである。


 長門の役目とはいったい何だろうか。彼女は、自分の役目は観測することだと言う。「エンドレスエイト」のエピソードにおいて観測するということは、ループの回数を数えることに他ならない。そして、まさに、この単調な作業こそが、世界が平板化し停止してしまうことを、最後の地点で押し留めていると言える。同じ時間が何度も繰り返されているとしても、みんなの記憶がリセットされてしまうとすれば、いったい、どうして、同じ時間が繰り返されていることが分かるのか。「エンドレスエイト」の各回は、極めて明白な形で、それぞれのループの違いが提示されていたが(着ている服が違うとか台詞の一部が異なっているとか)、もし仮に、まったく同じ展開があったとして、そこに何の差異を見出すことができなくても、それを数えることができるのならば、そこには最小限の差異を見出すことができるだろう。こうした最小限の差異を保証する役割、世界は常に誰かから見られているということを保証しているのが長門なのである。


 こうした長門の単調な作業に対して、少なくとも、キョンは、負い目というか感謝の気持ちを持っているように思われる。「長門にはいつも世話になっているような気がする」という台詞に示されているのは、まさに、世界が平板化し停止するのを押し留めている長門に対する感謝の気持ちではないかと思うのである(この台詞はエピソードの一回目には出てこない)。


 世界が平板ではないということは、そこに何らかの持続があるということである。同じ時間が繰り返されているのに持続があるというのは奇妙であるが、長門の超越的な視点が示しているのはそのような時間を超越した持続である。そして、このような持続によってもたらされるのが、平行世界という観点ではないかと僕は思うのである。


 「エンドレスエイト」が興味深いのは、平行世界の観念が確率論的な視点の下で提示されているところである。平行世界的な観点、それも確率論的な観点こそが、世界に内在しているというわれわれの有限なパースペクティヴに対して、大きな倫理的転回をもたらすはずだ、というのが、「エンドレスエイト」の基本的なヴィジョンであるように思われる。


 「エンドレスエイト」が非常に特異であるのは、それぞれの繰り返しがひとつの平行世界を示しているとしても、そこでの世界の差異が非常にわずかだ、というものである。深夜の公園で長門が説明する平行世界の差異とは、盆踊りに行ったかどうか、バイトの内容が変わったかどうかといったレベルであって、『CLANNAD』で示されていたような、ある人物が生きている世界と死んでいる世界とがあるというような大きな差異はそこにはない。


 この差異の小ささが確率論的な問題を提起するように思える。キョンたちは、第八回目の「エンドレスエイト」、つまり、15532回目にループを脱出することができたわけだが、なぜ、この回に脱出することができたのかということが明示されているようには思えない。つまり、15532回目に何かその回に固有な必然性のようなものが提示されていたようには思えない。ここから、僕は、この作品においては、必然性よりもむしろ、偶然性のほうが強調されているのではないか、というふうに思ったのである。


 この点が「エンドレスエイト」の特異な点だと思うのだが、これまでにしばしばあったような平行世界作品においては、登場人物の選択の違いがその後の世界を決定するという分岐の問題が提示されていたように思う。しかし、この分岐という観点から「エンドレスエイト」を見るのであれば、「エンドレスエイト」で問題になっている平行世界においては、決定的な分岐は基本的にひとつだけしか存在しない。つまり、30日の喫茶店キョンハルヒを呼び止めることができるかどうかである。しかし、ここに分岐があるとしても、呼び止めるか呼び止めないかという選択が問題になっているわけではない。問題になっているのは、これまでの15531回は呼び止められなかったが、15532回目にはたまたま呼び止めることができたという、そのような偶然的な差異だけである。


 まとめると、どちらを選択するかという決断の違いがその後の世界を大きく変えるというような平行世界の観念がここで問題になっているのではなく、確率論的にもたらされる微小な差異が何かを決定づけるという、そのような世界観が問題になっているように思うのである。決断が差異をもたらすのではなく、確率論的な差異が何かを決定づける、というような世界観がここでは提示されているのではないだろうか。


 平行世界というのはすぐれて空間的な問題設定であるが、しかし、「エンドレスエイト」のような提示のされ方においては、平行世界を時間的な問題として取り扱うことが可能となる。「エンドレスエイト」の第八回目、つまり、キョンがループを脱出した回で、キョンは、これまでのループを経験した自分が、その記憶によって(既視感という形で)、何かメッセージを送っていたのであり、そのメッセージが最終的にはループの脱出に役立ったということを述べていた。この想定は、つまり、これまでのループを直線的な時間に置き換えたその量がループの脱出に寄与したことを意味する。言い換えるなら、キョンがループを脱出するためには600年近くの時間が必要だった、ということである。


 しかしながら、そうしたことが、つまり時間の量的な積み重ねが、この作品で問題になっているのだろうかという疑問が僕にはある。ループを脱出するのには600年近くの時間が必要だったという発想には必然性の観念が見出せる。しかし、そうなのではなく、エピソードの最後のポーカーが暗示しているように、そこには、確率論的な何かが、偶然的な何かが問題になっているのではないだろうか。つまり、「エンドレスエイト」は、確率論的な世界観の特質を理解しやすくさせるために、そこに直線的な時間の比喩を持ってきたのではないだろうか。


 確率論的な観点から立ち上がってくるもの、それは、無意味な時間、無意味な世界をどのように救い出すかという問題である。ここには、当たりを引くことと外れを引くこととの関係性が問題化されている。


 非常に単純な想定をしてみよう。当たりがひとつ、外れがふたつ入っている籤があって、三人がそれぞれひとつずつその籤を引くとする。その場合、外れを引く人がふたり、当たりを引く人がひとり出てくることになる。これは、確率論的にそうだというだけであって、そこに何らかの因果関係を想定することはできないだろう。つまり、外れを引いた人がふたりいるからこそ、当たりを引いた人がひとり出てくる、というふうに言うことは間違いであるだろう。しかしながら、キョンの発言には、このような因果関係をあえて構築しようとしているところがある。つまり、自分は15531回外れを引いてきたからこそ、15532回目に当たりを引くことができた、というような因果関係をあえて構築しようとしているところがあるのだ。そして、まさに、キョンは、そのような因果関係を確立することによって、平行世界の自分、その存在がなかったことにされてしまう自分を救済しようとしているように思えるのである。


 ここで提示される倫理というものがどのようなものであるのかということをもっと明確にしてみよう。ここで想定される確率論的な倫理は、例えば、イス取りゲームなどにおいて問題になりうる倫理、競争関係において問題になりうる倫理とは明確に異なる。イス取りゲームにおいては、私は座ることができたのだから座れなかった人がどこかにいるはずだ、あるいは、私は座れなかったのだから座れた人がどこかにいるはずだ、というような想定をすることができる。ここから、自己の背後にいる具体的な他者に対して何らかの倫理的な関係性を構築することは可能であるだろう。しかし、これは、何か有限なものをみんなで取り合うという想定において問題になりうる倫理である。


 これに対して、「エンドレスエイト」において提示されている倫理とは、単純に確率だけが支配する世界で問題になりうる倫理であり、そこで想定される他者とは、平行世界の自分に他ならない。しかし、そもそも、なぜ、平行世界の自分の存在などというものに配慮しなければならないのか。それは、人間が自分の生を一回的なものとして認めたときに、そこに亡霊のように付きまとうことになるのが平行世界や可能世界という想定であり、この想定において、それでもなお、この自らの生の一回性を肯定できるとすれば、それは、個別具体的な他者との関係においてよりも、平行世界の自分との関係によって可能になると思われるからである。つまり、この倫理は、徹底的に利己的な倫理であるがゆえに万人に開かれている。言うなれば、この倫理は、自分自身を救い出すために自分自身が犠牲になる倫理なのである。


 「エンドレスエイト」が八回繰り返されて放送されたことそれ自体には何の意味もないことだろう。無限大を表わす記号(∞)が8を横にした形をしていること、つまり、8の字にはメビウスの帯のようなループ構造が見出されると、それぐらいの意味づけしかないことだろう。重要なのは、「エンドレスエイト」のループの無意味さ(微小な差異)であり、その無意味さがどのように表現されているのかということである。「エンドレスエイト」のループが八回にわたって放送されたことに対してネットで否定的な発言をしている人が非常にたくさんいたということから判断するに、ループ構造の無意味さの表現は誰もが実感できるほどには成功している表現だったと言えるだろう。


 それはともかくとして、重要なのは、この無意味なものに対する配慮である。第八回目のループ脱出のシーンが感動的なのは、キョンが平行世界の自分のために行動しているからである。キョンの意識上においてはループはほとんど実感されていないのだから、平行世界の自分というのは、まさに想定以外の何ものでもない。しかしながら、この想定に基づいて、キョンは、平行世界の無数の自分たちのために行動したのである。


 キョンはこの夏休みに冒険をしていたわけではない。ただ15532回、夏休み最後の二週間を繰り返していただけである。ただ単に同じ日常生活が繰り返されていたということ。そのひとつの日常がこの現在であるということ。ここにこそ、『涼宮ハルヒの憂鬱』の可能性、大状況化されない小状況の可能性が示唆されているように思うのである。