革命の超越的な水準

 現在の世界で求められているものとは、ひとことで言えば、切断であるように僕には思える。切断というのは、何かと何かを明確に分けることであり、それは、空間のレベルに対しても、時間のレベルに対しても言うことができる。空間のレベルにおいては、特に、内と外との分節化が問題になるだろうし、時間のレベルにおいては、以前/以後ということが問題になるだろう。
 最近のサブカルチャー作品を見ていて思うのは、とりわけ、時間の水準における切断の問題が深刻だ、ということである。時間の水準において、とりわけ、われわれ人間にとって問題になりうるのは、有限な生の問題、死の問題である。ここで問題になっているのは、生と死という分節化以外に、人間の時間において決定的でありうる分節化は何でありうるのか、ということである。
 最近、マルクスの本を読んでいて、ふと思ったことは、おそらく、マルクスにとって革命というものは、決定的な切断でありえたのだろう、ということである。その点で、革命とは、われわれの世界にあっては、常に、超越的な水準に位置づけられるものだと言えるだろう。つまり、それは、われわれの世界では決して起こりえないもの(われわれの世界の外部に位置づけられるもの、革命以後の世界においてはその世界の前提となっているようなもの)なのである。
 こうしたことは、マルクスの本のどこかに書いてあるわけではなく、僕の単なる思いつきであるが、社会主義諸国が凋落した現在という地点から見ると、そんなふうに考えたほうがリアリティがあることは間違いない。つまり、マルクスもまた、本当には革命など信じていなかったというふうにシニカルに考えるのである。
 ポイントとなるのは、それでもなおかつ、革命などという言葉を使うことにどのような意味があるのか、ということである。ここで問題になっている水準とは、「いつの日か必ず革命の時は来る」というロマン主義的な方向性でもなく、「革命は永遠に起こらない」というシニカルな方向性でもない、その中間にあるような方向性である。
 われわれの有限な生を超越的なものに結びつける役割を担っているものとは、何よりもまず、宗教であるだろう。というのも、宗教は、しばしば、われわれの死後の生について語るからである。ここで思い出されるのは、つげ義春の『ゲンセンカン主人』というマンガに出てくる老婆の台詞である。この老婆は前世について語り、前世というものがなかったなら自分たちは生きていない、というようなことを述べる。前世がなかったら、われわれは幽霊のようなものになってしまう、と。この台詞が言わんとしていることとは、もし、われわれの生が現世だけで完結しているとすれば、そこには、何の実体もなくなってしまうだろう、ということである。この老婆は前世のことを鏡だと言うわけだが、鏡の比喩を用いて言い換えるなら、もし鏡というものがなければ、われわれは、自分たちがどこにいて何をしているのかということが分からなくなってしまうだろう、ということである。
 つまるところ、革命もまた、一種の鏡の役割、地図や羅針盤の役割を果たしているのではないか、と思われるのである。現在求められているものとは、こんなふうに、われわれの外にあって、われわれを位置づけるようなものではないだろうか? セカイ系作品で、前世が問題になるのも、同様の理由のように思われる。つまり、そこでは、われわれが足をつけるための地面が求められているのである。
 切断についてのよい例は、『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版最終話に出てくる。何もない空間があり、そこに一本の線を引くと、天と地が出来る。こんなふうに、平板な世界に起伏を生み出すものが切断の機能である。
 革命というものがほとんどリアリティを失っている現在にあっては、別の超越的な何かが必要とされているのかも知れない。さらに言えば、そのような超越的な指針なしに、この世の生を意味づけることも可能かも知れない。いずれにせよ、僕は、外部というものなしにやっていけるほど、人間が強い生き物だとはとても思えないわけである。