視野の狭さ、選択肢の少なさ

 われわれの視野の問題。認識の問題。
 いったい何が、われわれの視野の中に入ってくるものとわれわれの視野から逃れ去ってしまうものとを分けるのか? われわれが何か判断を下すとき、その判断の根拠となりうるものとなりえないものとを分かつものとは何だろうか? こうした問いにおいて問題になっていることが、視野狭窄の問題である。
 われわれは、自分の視野のうちに入りこんだものが世界のすべてだと思いこんでしまう。いや、外にも世界があることはよく知っているが、しかし、そのような外的なものがわれわれの判断に影響を与えることは非常に困難であるだろう。目に見えないもののことを考えることは非常に難しいことなのである。
 これは、選択肢の問題である。われわれは、目の前にある選択肢以外の選択肢を想像することが非常に困難である、ということだ。目の前にある選択肢のどれかを選ぶことができない状態。これが行き詰まるということである。


 セカイ系作品のアクロバティックなところは、このような貧しい状態を豊かにする方向に動くのではなく、その貧しさの中にあくまでも留まろうとするところにある。セカイ系において、社会的な次元は、すべて視野の外にある。『最終兵器彼女』の「戦争」がそうであるように、社会問題の総体は、まるで突発的に起こった自然災害のように、われわれの外の出来事というふうに経験されるのである。
 視野の狭さと選択肢の少なさに話を戻すと、ここで避けられていることとは、性急に選択をすること、急いで結論を出すことだと言える。それゆえ、ここでなされることとは、選択しないこと、ただただ待ち続けることだけである。
 以前にも何度か言及したいくつかのアニメ作品(例えば『ローゼンメイデン・トロイメント』や『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』)、バトルロワイアル状態を描いた作品で示されていることとは、そのような否定の態度だと言える。これでもなく、あれでもない。ここで否定されているものとは、個々の選択肢というよりも、そのように選択を強いてくる状況そのものである。つまり、そこで目指されているのは、バトルロワイアル状況そのものを否定することなのである。


 ここで物語という言葉を導入すれば、ここでの否定とは、選択を強いてくる物語に対する否定だと言えるだろう。つまり、物語とは、いくつかの選択肢を強いてくるだけでなく、その選択肢のうちのどれを選ぶのが正しいことなのか、ということも強いてくるのである。
 いわゆる鬱状態とは、こんなふうに選択を強いてくる状況に対して、自らを活動不能状態にすることで選択することを拒絶する試みだと言えるだろう。この点を非常に上手く描き出しているアニメ作家は、大地丙太郎である。彼の作品の登場人物は、しばしば、鬱状態に陥るが、そのとき、その登場人物は、膝の中に顔をうずめ、他の人からの呼びかけにまったく何も答えようとはしなくなる。つまり、まるで石のようになってしまうわけであるが、ここで拒絶されているものとは、その登場人物に物語が課す役割に対してなのである。
 物語というのは、われわれをずっと先のほうまで運んでいってくれる乗り物のようなものである。それは、われわれを、ずっと先の未来に送ってくれる。だが、われわれは、時として、何かの物語に自分を委ねることを拒絶することがある。そこには、物語には回収されないものがあるのだ。物語に回収されないもの、物語に抵抗する固い核。そうしたものが、われわれを病気にしたり、機能不全にしたりするのである。