身体感覚、ギャップをもたらす他者の存在

 セカイ系の諸作品は、「私」の大きさを測る物差しそれ自体を問題にしていると言える。つまり、ここでの問題点とは、尺度がはっきりとしないことである。鏡の比喩を用いれば、セカイ系の世界とは、鏡のない世界、自分自身の大きさというものを上手く把握することのできない世界のことである。

 身体というタームから、『最終兵器彼女』にアプローチしてみれば、兵器となった少女ちせの問題点とは、まさに、自分自身の大きさが分からなくなるところにあるだろう。いったい、自分は、ひとりの女子高生として、ひとりの恋人として日常生活を送っていく存在なのか、それとも、全世界の危機のために戦う戦闘兵器なのか。ここで問題となっていることとは、いったい、自分が世界の中にどのように組み込まれているのかという身体感覚の問題だと言えるだろう。自分自身の大きさとそれに対応する空間の大きさ、場所の位相が問題となってくるのである。


 身体感覚という点で、非常に興味深い作品と言えば、『なるたる』のことを思い出す。この作品には、「竜の子」と呼ばれる奇妙な生物たちが登場する。この生物は、少年少女たちと感覚を共有し、少年少女たちの意志に従って行動する。『エヴァンゲリオン』の言葉を用いれば、そこに見出されるのは、「シンクロ」感覚なのである。

 『なるたる』で好んで描かれるシンクロ感覚は、痛みである。登場人物たちは、痛みを感じ、嘔吐したりする。痛みというのは、この作品の基調をなす感覚であるが、そもそも、痛みというものは、われわれが誰かに共感するときに、非常に重要な役割を果たしている感覚であると言えるだろう。さらに言えば、痛みほど、他人に理解されない感覚もないと言える。それゆえ、痛みとは、「私」と他者との間にある、大きな壁のようなものだと言えるだろう。

 身体感覚という点に話を戻せば、そこでは、シンクロの感覚だけが重要なのでなく、ギャップの感覚も重要だと言えるだろう。身体が世界と調和している感覚ではなく、身体と世界とが齟齬をきたしているような感覚である。その点で、『なるたる』の竜の子は、当然のことながら、過剰なものだと言える。それは、少年少女たちの外にあるものである。それは、少年少女たちの力以上の力を持っており、容易に人を殺すことができるようなものなのである。


 自分の肉体の外にありながら、それでも、自分の肉体の一部であるような存在。そうした点で、完全に自分の自由にはならない自分自身の一部。このような感覚のギャップは、『新世紀エヴァンゲリオン』で好んで描かれていることである。エヴァンゲリオンという兵器は、しばしば、操縦者の意志に従うことをやめることがある。暴走したり、動かなくなったりするのだ。このような身体の不自由な感覚こそ、『エヴァ』が描くことを目指したものだと言える。究極的には、「私」の肉体は、「私」の存在とは、無関係な代物なのだ。「私」の肉体は、「私」にとっては、完全に外的なものだと言える。だが、この外的なものなくしては、「私」が存在しないことも事実であるだろう。その点が非常に不愉快なギャップだと言えるのである。

 右手がエイリアンに乗っ取られるという、奇妙な身体感覚を扱った『寄生獣』については何が言えるだろうか? ここに見出される問題も、ある種の近さと遠さの問題、どこまでが「私」であり、どこまでが「お前」なのか、という問題である。ここでの発見とは、「私」が「私」だと思っているものよりもずっと多くのものが他者のものである、という驚くべき発見である。この種の発見は、「私」の身体地図を書きかえるような類のものだと言える。


 こうした点で、右手が女の子になってしまうという奇妙な出来事を描いた作品、『美鳥の日々』は、『寄生獣』のエッセンスを喜劇化した作品だと言えるだろう。そこでの他者は、まったく不可解なエイリアンよりもずっと親近感の持てる存在であるが、だからこそ、厄介な事態がそこには存在しているとも言える。そこに恋愛というファクターが入りこんでいる分だけ、問題になっていることは見やすいが、つまるところ、「私」が「私」になることを邪魔する存在としての他者がここでは問題になっているのである。「私」の日常生活に入りこんでくる他者。だが、この他者は、もしそれがいなくなってしまうならば、「私」の存在それ自体がなくなってしまうような種類の他者である。

 このような邪魔者としての他者の存在は、近年のサブカルチャー作品で、好んで描かれるようになってきたと思われる。そこでの他者とは、端的に、日常生活に突然入りこんできた余分なものである。しかし、この余分なものが入りこんでくれたおかげで、日常生活がそれまではらんできた様々な困難さを回避することができるようになるのである。このような他者の偶然の介入こそ、今日の社会では、ますます希少になってきているものだと言えるだろう。だからこそ、『まほらば』や『吉永さん家のガーゴイル』のような、互酬的コミュニティをノスタルジックに描く作品が出てくるのである。