『あかほり外道アワーらぶげ』について少し。
この作品で問題になっていることを整理しようとすることは、思いのほか、困難であるように思える。正義と悪という問題設定にしても、そこでは、単純に、正義と悪との位置交換が描かれているわけではないだろう。つまり、「正義」を自称する者たちが悪をなし(『絶対正義ラブフェロモン』)、「悪」を自称する者たちが正義をなす(『それゆけ!外道乙女隊』)、というような対称的な構図がそこで示されているわけではないように思えるのだ。
『絶対正義ラブフェロモン』よりも、『それゆけ!外道乙女隊』のほうが、僕にとっては、理解しやすかったので、後者の作品から話を始めてみたい。
『外道乙女隊』に漂っている雰囲気、それは、間違いなく、ある種のノスタルジーである。このノスタルジーを喚起するにあたって、重要な役割を果たしているのが、貧しさについての描写である。以前、『ハクション大魔王』を見ていて、貧しさというものを考えさせられるシーンにぶつかったことがある。それは、貧しさそのものというよりも、この作品が作られた時代(60年代後半)には、間違いなく、貧しさについてのひとつのイメージがあった、ということである。
僕の見たエピソードは、大魔王が、とある貧乏な家を訪れて、その家の子供たちの夢を叶えてあげるというような内容だったが、その家とは、平屋建てで、玄関のドアは引き戸で、子沢山で、みんなボロボロの服を着ている、というものだった。貧しい家庭についてのこのようなイメージは藤子不二雄の作品にも見出せるものであるが、『外道乙女隊』に出てくる姉妹たちも、こうしたイメージを元にして作られていることは間違いないだろう。彼女たちの両親はすでに死んでしまっていて、長女が親代わりになって妹たちの面倒を見ている、というような設定がまさにそうであろう。
注目すべき点は、このような貧しさのイメージが、「悪の組織」に対するノスタルジックなイメージに重ね合わされているところである。『外道乙女隊』に出てくる、とある悪の組織は、経営の厳しい中小企業として描かれていた。このような表現に含意されているものとは、まず第一に、世界征服を企むような巨大な悪の組織の衰退であるが、そのことは、端的に、悪の需要がなくなった、ということを意味しているであろう。
さらに言えば、問題となっているのは、悪の存在によって何が危険にさらされているのか、ということである。昔のアニメや特撮に出てくる悪の組織は、世界征服というグローバルな目的を掲げながらも、実際にやっていることは、ローカルな場所に危機をもたらすことだったと言える。つまり、そこで喚起される危機とは、「君の街が危ない!」というような、地域社会レベルでの危機、生活世界の危機である。このローカルな危機の感覚こそが、旧来の悪が存在する場所を保証していたと言えるだろう。だが、『外道乙女隊』に見出せるように、時代は変わり、悪の組織は時代遅れの存在になってしまった。「ぼくの街、わたしの街」という感覚自体がなくなってしまったのである。
ローカルな場所を危機に陥れるグローバルな悪の存在の代わりに出てきたのが、まさに、『絶対正義ラブフェロモン』で描かれるような「絶対正義」という名の悪の存在、原理主義的な悪の存在である。ここでの「絶対性」とは、「普遍的」というのとは意味を異にする。つまり、それは、誰にとっても正義というのではなく、正義を主張する個別の立場の絶対性ということであり、そこでの正義は、テロリストがそのように見なされているように、すぐに悪の立場に反転してしまうようなものなのである。
かくして、この『らぶげ』という作品は、正義と悪について描いた作品というよりも、悪の位置づけについて描いた作品だと言えるだろう。そして、この問題の射程は非常に広いものだと言える。そこでは、単に、生活世界の崩壊という事実が描かれているだけでも、生活世界への郷愁が描かれているだけでもなく、その先にある問題、現代という時代がどのような時代であるのか、という点も描かれているのである。