先週、古本屋に行ったとき、懐かしいマンガがあったので、思わず買ってしまった。それは、たちいりハルコの『パンク・ポンク』というマンガである。『パンク・ポンク』は、昔、小学館から出ていた「小学○年生」(一年生から六年生まである)に連載されていたマンガである。
読み返していて、ふと気がついたことは、この作品と似たような雰囲気のマンガやアニメがいくつもある、ということである。おそらく、その起源に位置づけられそうなのは、スヌーピーの出てくるマンガ『ピーナッツ』であるが、最近の作品で言えば、『マシュマロ通信』も同種の作品だと言えるだろう。
しかし、何よりも、僕が似ていると思った作品は、『オヨネコぶーにゃん』である。僕はこの作品をアニメでしか知らないが、その作品の雰囲気は、『パンク・ポンク』と非常によく似ているような気がする。
『オヨネコぶーにゃん』に見出すことができるものとは、端的に言って、悪意のあるユーモアである。醜悪な主人公が低俗な欲望に従って行動し、結果、我が身に災厄がふりかかる、と、そのような物語がそこでは描かれているのである。もちろん、これは誇張した言い方であるが、しかし、そこで引き起こされる笑いとは、いじめの中で生じる笑いと非常によく似たものがあるように思える。そして、そうした雰囲気が、また、『パンク・ポンク』という作品にも見出されるわけである。
ここで、もうひとつ、思い出した作品がある。それは、僕が小さい頃に読んでショックを受けたマンガ、『ダメおやじ』である。この作品は、簡単に言ってしまえば、気弱な父親が妻や子供たちからいじめられるというものであるが、よく、こんな作品がギャグマンガとして受け入れられたものだ、と当時小学生だった僕は思ったものだった。単純に読んでいて不快になったわけだが、しかし、思い返してみると、あの作品には、鬱屈した魅力とでも言うべきものが備わっていたように思える。
いったい、当時の読者がどのように『ダメおやじ』を読んでいたのか、それは想像するしかないが、僕が思うに、読者は、決して、妻や子供たちの側に立って、おやじのダメさ加減を笑っていたのではないように思う。むしろ、そこで、おやじのほうに同情のまなざしを向けていたのではないかと思うのだが、しかし、それは、単純に、おやじがかわいそうとか、そういう言葉でまとめることができないもののように思う。それは、同情ではあるが、悪意のある同情とでも言うべきものである。
このことの最も洗練された例とは、「ルーニー・テューンズ」の作品のひとつである、ロードランナーとワイリー・コヨーテとの追いかけっこだろう。追いかけっこを描いた作品は、同じ「ルーニー・テューンズ」の中にも、バッグス・バニーとダフィー・ダック、トゥイティーとシルベスターなどのペアがいるわけだが(そもそもトムとジェリーのペアがいるわけだが)、ロードランナーとワイリー・コヨーテとの追いかけっこほど洗練されたものはないだろう。その闘争には一切の台詞がなく、人気のまったくない荒野で、この二匹の生き物は、ただただ、追いかっけこをするのである。そして、この作品の最も非情なところは、ワイリー・コヨーテがロードランナーを捕まえようといろいろと画策するが、その画策はどれも失敗する運命にある、という点にある。つまり、ワイリー・コヨーテとは、タイムボカン・シリーズのあの三人組とは違って、自分が絶対に負けるという絶対的な真理をまったく知ることなく、永久に、その些細な目的を叶えようと努力し続ける存在なのである。
こうした存在に対して、同情しない人など誰もいないことだろう。それゆえ、間違いなく、視聴者のまなざしは、負け続けているコヨーテのほうに向けられているはずである。ロードランナーのほうは、荒野を走る運送トラックをモデルにしただけあって、人間的なところはまったくないが、コヨーテのほうは人間味に溢れていると言える(まさに、彼が失敗をするという点において特に)。当然のことながら、このアニメを見ている人はコヨーテに同情するが、しかし、重要な点は、それでは、コヨーテがロードランナーを食べるシーンを見たいのかどうか、という点にある。ここから、負け続けることによって愛嬌を持ってくるキャラクターの存在というものが浮かび上がってくる。つまり、視聴者が見たいのは、負け続けるがゆえに愛らしい存在であって、常に勝つ完全な存在ではないのである。
この愛嬌、愛らしさこそ、『オヨネコぶーにゃん』にしろ、『パンク・ポンク』にしろ、『ダメおやじ』にしろ、一連のマンガの主人公たちが持ち合わせている性質であると言えるだろう。そして、その愛らしさを享受したいがために、読者は悪意ある同情のまなざしをこれらの主人公たちに向けている、というような構造がそこにはあるように思える。