『耳をすませば』について(10)



 前回は、『耳をすませば』を見ていくための重要な視点として、ノスタルジーの問題を提起した。「カントリーロード」の歌によって喚起されるようなノスタルジーである。『耳をすませば』は、基本的に、ファンタジー作品であるが、そこに、一緒に、ノスタルジーの問題が入り込んでいるというところが興味深いところである。こうした点からも、ノスタルジーとファンタジーとの共通点について考えることは意義のあることだろう。


 さて、なぜ、あえて、ここで、ノスタルジーを問題化するのか、ということをもっと明確化してみたい。ノスタルジーの問題とは、端的に言って、われわれが生きている場所について問いを提起することである。ノスタルジーが喚起するものとは、故郷であり、それは、そこからわれわれがやってきた場所のことである。「歩き疲れ、たたずむと、浮かんで来る故郷(ふるさと)の街」と歌われているように、故郷の街とは、言ってみれば、われわれが進む道を見失いそうになったときに現われてくる場所なのである。


 場所の問題というのは極めて重要である。記憶喪失者の決まり文句「ここはどこ? 私は誰?」に端的に示されているように、場所の問題はアイデンティティの問題と密接な関係を持っている。


 最近、僕は、このような場所とアイデンティティという座標軸に従って、現在のマンガやアニメなどのサブカルチャーを三つの様式に分類することを試みている。


 その第一の様式は、セカイ系の様式であり、「きみとぼく」という二者関係において問題となる場所である。この場所は、『ほしのこえ』の最後の台詞「ぼくは、わたしは、ここにいるよ」の「ここ」のことである。「ここ」とは、ある意味、空間的に特定できるような場所のことではない。それは、「きみとぼく」のいる場所のことである(「きみとぼく」がいなかったのではなく、ちゃんといたんだということを保証するような場所のこと)。この場所は、『最終兵器彼女』では、高台にある展望台として表象されているが、それは、世界が滅んでも絶対に残り続ける場所、永遠の場所として描かれているのである。


 第二の様式は、萌え系作品でしばしば描かれるような場所であり、それは、地方都市、さらには、「地元」として表象されるような場所のことである。対比されるのは、田舎と都会であり、都会がせわしなさと喧騒に満ちているのに対して、地方都市ではゆったりとした時間が流れている。だからこそ、そこにおいて、(宮台真司が言うような意味で)まったりとした戯れが可能になるのである。


 第三の様式は、ナショナリズムという様式である。そこでの場所は、国という巨大なものであるが、巨大である分、それは抽象化されているか、あるいは、何か具体的な表象と短絡的に結びついている。そこで問題となることとは、いかにして「有事」に対処するか、ということであり、そのような技術的な問題と、「自らの命を賭ける」といった精神的な問題とが同時に提起されているのである。


 これらの三様態で重要なのは、やはり、「私がどこにいるのか?」ということと「私は誰であるのか?」ということとが密接な関係を持っている点である。場所が確定すれば、それによって、アイデンティティも確定するわけである。


 さて、ノスタルジーに関して言えば、これは、とりわけ、第二の様式と密接な関係がある。団塊の世代で、定年後、地方都市に住みたいと思っている人がかなりいる、というような新聞記事を以前に読んだことがあったが、こうした傾向も、昭和30年代ブームと同様、ノスタルジーの問題を提起していると言えるだろう。そこで求められているのは、何よりも、自分自身のアイデンティティをはっきりさせるための場所なのである。


 アニメ『おもひでぽろぽろ』で最初に思い出されるエピソードは、自分には田舎がない、というエピソードである。学校の友達が夏休みに田舎に行くという話を聞いて、タエ子もまた田舎に行きたくなった、というエピソードである。大人になったタエ子が(義兄の田舎である)山形県に行く動機のひとつとして自分で上げているのが、この故郷の不在である。みんなには帰る場所があるのに、自分にはその場所がない。そうした帰郷への欲求が擬似体験としての山形行きを決断させた、というふうに自己分析しているわけである。


 しかし、そもそも、帰郷するということはすべて擬似体験である、と僕は思っているので、こうしたタエ子の分析は、まったく本質的なことであるように思える。そして、物語の最後で、タエ子がこの擬似的な故郷に留まることを決断する、という振る舞いを見れば、さらに、事態は本質的であると言える。タエ子は、まさに、擬似的な帰郷の振る舞いを通して、自分の帰る場所を作り出したわけである。


 このような虚構性という観点から、ノスタルジーとファンタジーとの関係にもっと注目してみることにしよう。地方都市を舞台にした萌え系作品において重要なのは、やはり、皺曲線であるように思われる。直線や平面が都会の特徴であるならば、曲線や凹凸が地方の特徴である。このことは、例えば、『ぺとぺとさん』や『かみちゅ!』のような作品にはっきりと表われていることである。これらの作品が描いていることは、一連のジブリの作品、つまり、『もののけ姫』や『となりのトトロ』で描かれているようなことと同じで、平面的ではなく、凹凸のある世界では、その陰に妖怪や神が住まう、ということが描かれているわけである。


 しかし、『ぺとぺとさん』や『かみちゅ!』は、やはり、『もののけ姫』や『トトロ』とは、かなり違っていると言わねばならない。前者の作品に見出されるのは、端的に言えば、資本主義の影響、近代的な価値観の導入である。つまり、両作品とも、妖怪や神は、陰に住まうものではなく、表に出てくる存在になっているのである。『ぺとぺとさん』で描かれているような、個人としての権利を認められた妖怪という存在がまさにそれである。


 権利を認められ、人間と共に学校に通っている妖怪という設定は、水木しげるの『墓場の鬼太郎』が描いていたような不気味な状態ではまったくない。水木しげる楳図かずおの世界であるならば、学校にさえも皺曲線があったわけだが、『ぺとぺとさん』や『かみちゅ!』に見出される学校は、そうした不気味な綾のなくなった学校だと言える。そうした「学校の七不思議」系の話は、(『金田一少年の事件簿』を引き合いに出すまでもなく)旧校舎の存在と共に、消え去ってしまったと言えるだろう。


 注目すべき点は、『ぺとぺとさん』に見出される多様な存在の共存という観点であるだろう。これは、外国人労働者の増加という現在の社会状況から考えれば、十分に理解できる問題設定である。まったく異なった文化や習慣を持っているはずの他者が、日本の伝統的な習慣や風俗に慣れ親しんでいく。ここに見出されるのも、まさに、ノスタルジーの問題であり、外国人という鏡を通して反復的に再発見されるのは、失われた日本の故郷なのである。


 このようなグローバルとローカルとの交点に位置する作品の中でも、最もイデオロギッシュな作品だと言えるのは、『ケロロ軍曹』であるだろう。ケロロ軍曹という「異人(エイリアン)」によって再発見される日本には、二つの様態がある。ひとつは、オリエンタリズムを喚起する神秘の国・日本という姿であり、それは、毎年行なわれる様々な行事とそれに伴って描かれる美しい日本の風景によって提示されるものである。もうひとつは、アニメ・マンガ・ゲームというコンテンツ産業の発信地としての日本の姿であり、「ガンダム」を中心とする様々なアニメ作品の引用が擬似的に日本の姿を再構築しているわけである。


 『ケロロ軍曹』の、ある意味、見事なところは、オタク文化と「サザエさん」的なマンネリズムとを結びつけたところにある。それは、言ってみれば、オタク文化の形式化である。オタク文化が日本の風景の一部を構成しているということ、さらには、そうしたサブカルチャーの風景の中に日本的なものが再発見されるということ、そのような鏡像的な関係においてのみ、オタク文化が許容されるということである。


 もちろん、ここにおいて失われるのは、オタク文化の影の部分、負の側面である。おそらく、手塚治虫はよく知っていたと思われるが、アニメーションというものの背後にあるものとは、端的に言って、性と死である。そこにあるのはエロティシズムであり、不気味なものである。こうした負の側面は、オタク文化から決して拭い去ることはできないだろう。だからこそ、そこに、魅力と嫌悪感が共に生じる余地があるわけである。


 さて、ノスタルジーに話を戻すと、以上のような仮構された日本の風景とファンタジーとの間に密接な関係を見出すことができるわけである。重要な点は、反復的な再発見というところであり、ファンタジーも再発見されるようなものなのである。この点で、やはり、日本の風景という問題は、ファンタジーから消し去ることのできない要素である。ある意味で、『トトロ』や『もののけ姫』だけでなく、『ラピュタ』や『ナウシカ』の風景もまた、日本の風景なのである。


 こうした風景の問題について、次回は論じていくことにしたい。