『耳をすませば』について(9)



 前回は、穴や線といったキーワードに基づきながら、現実世界と異世界との関係を素描した。異世界と現実世界との関係において重要なのは、そこにある切断と、切断された二つの世界の接着である。現実世界から何かが切り離され、それが再び、現実世界にくっつくのである。


 僕の議論の方向性をここで少しまとめると、僕は、『耳をすませば』という作品の中に、恋愛・ノスタルジー・ファンタジーという三つの問題設定を見出そうとしている。そして、これら三つの問題設定は、同一の構造を持っていると思われるのである。


 その構造の第一の特徴は、恋愛に関する話ですでに問題にしたことだが、再会という出来事に見出される特徴、つまり、反復である。セカイ系作品における恋愛に注目するときに、重要になってくるのは、この反復の構造である。以前起こったことが、別の形で、もう一度繰り返されるわけである。


 その点で、富野由悠季の「機動戦士ガンダム」シリーズなどは、まさに、セカイ系の起源に位置する作品だと言える。つまり、『ファーストガンダム』における、アムロ、ララア、シャアという三者の関係は、「ガンダム」という長大な物語においては、一種の基本関係をなしていて、それが何度も何度も繰り返されるわけである(例えば、『Zガンダム』における、カツ、サラ、シロッコ三者関係のように)。


 しかし、より重要な視点は、そこでの反復が二重化されている、ということである。つまり、恋愛で言えば、誰かのことを好きになったとき、もうすでにそこで、その恋愛感情は反復されたものなのである。実際には一度しか起こっていないことだが、あたかも反復されたかのように生起するのだ。


 この反復構造が、ノスタルジーやファンタジーにアプローチするときも、非常に重要なものになってくる、というのが僕の主張したいことである。


 それでは、次に、ノスタルジーに移行しよう。ノスタルジーにおける反復構造は、一見すると、非常に理解しやすいものであるだろう。過去に体験された何かが、現在見たり聞いたりしている何かによって、想起されてくる、という状態を普通はノスタルジーと呼ぶわけなのだから。しかし、ここにもまた、恋愛における再会という出来事と同様の構造を見出すことはできないだろうか? つまり、極論すれば、ノスタルジーとはすべて錯覚だ、ということである。


 そもそも、ノスタルジーにはポイントがある、ということに注目すべきだろう。つまり、過去に触れたものには何にでも懐かしさを感じるわけではなく、懐かしさを喚起されるものとされないものとがある、ということである。この点で、昨今の様々なノスタルジー・ブームには、警戒する必要があるだろう。というのも、そこには、ある種の選別と加工が行なわれていると考えられるからである。まさに、ノスタルジー・ブームとは、フィリップ・K・ディックの「模造記憶」を地で行っているわけだ。


 さて、『耳をすませば』におけるノスタルジーのテーマは、マンガ版には見出されず、アニメ化の際に導入されたものである。つまり、ノスタルジーの要素は、スタジオジブリがもたらしたものなわけである。


 スタジオジブリとノスタルジーというテーマは非常に興味深いものである。これは、現在、スタジオジブリのアニメが、言ってみれば、日本国民のお墨付きをもらっているということと無関係ではないだろう。つまり、悪い言い方をすれば、ジブリはわれわれの故郷を捏造している、ということである。


 ここから考えるのであれば、故郷とは、それが失われたときに初めて意味を持ってくるものだと言えるだろう。まさに「遠きにありて思うもの」である。そして、ここで捏造されるのは、喪失感に他ならない。これは、恋愛についても言えることであるが、何かを失ったという体験がそこで反復的に捏造されているのである。


 ジブリアニメを喪失という観点から見ていくことは、非常に興味深いことである。例えば、『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』で失われているもの(失われつつあるもの)は、森や大地といった自然、完全に安定し調和が取れた世界という理想状態であるだろう。『紅の豚』において失われているものを名づけることは難しいが、そこに明確な切断線を見出すことは容易である。若いフィオからすれば不可解なことではあるが(そして、この視点は、われわれ観客の視点でもある)、ポルコやジーナたちは共通に何かを喪失しており、その喪失経験が、奇妙にも、(敵対関係にあるはずの)ポルコと空族たちとの間に連帯感のようなものを生み出しているのである。そして、そこで(何かが終わってしまったという)大きな線引きを象徴しているのが、ファシズムの台頭であり、ポルコの豚の姿なわけである。


 こうした、たそがれた雰囲気には警戒しなければならない、というのが僕の持論なわけだが、だからこそ、逆に、もっと、このノスタルジーの構造を明確化していく必要があるわけである。


 『耳をすませば』という作品をノスタルジーという観点から問題化していくとき、参照すべきジブリの作品が三つある。それは、『となりのトトロ』、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』の三作品である。これら三作品は、それぞれ別の仕方で、ノスタルジーの問題を提起している。特に、『トトロ』と『ぽんぽこ』は、『耳をすませば』とほとんど同じ地域を舞台にしている点で、非常に興味深い作品である。


 まずは、『おもひでぽろぽろ』を取り上げてみよう。この作品は、明確な日付を持っている。それは、昭和41年4月から翌年の昭和42年4月まで(1966年から67年)という日付である。これは原作のマンガにはっきりと書かれている日付である。つまり、そこで描かれているのは、小学校5年生のタエ子の一年間なわけである。


 この点で、そのアニメ化に際して付け加えられたものとは、成長して大人になったタエ子が山形県の田舎に行くというオリジナルの物語である。ここでも日付は明確で、それは、1982年のことである。


 昭和41年の思い出話しか存在していなかったところに、その16年後という二番目の時間軸を導入することによって、この物語はノスタルジーの構造を得ることになる。そして、さらには、いったい、なぜ、この1982年のこの時期に、昭和41年のことが思い出されるのか、という問いもまた、提起されることになるのである(もちろん、この問いは、作品の中で、主人公タエ子の個人的な問題として提起されているだけであり、社会的歴史的な問題として提起されているわけではない)。つまり、この問いは、ノスタルジーの可能性の条件を問題化する問いなわけである。


 こうした過去の思い出話を描いた作品は、『ちびまる子ちゃん』のような作品がまさにそうであるが、ある種の共通体験を提示しようとしている。この「共通体験」というものがまさに曲者であるわけだが、そこで狙われていることとは、多様な人間の間に線引きを行なって、ある種の共通理解を得ようとする試みである。その点で、学校文化というものは非常に強力な力を持っていると言えるだろう。というのも、ほとんどの人が学校に行った経験を持っているために、そこから共通体験を作りやすいわけだからであるが、まさに、そうした理由から、現在のサブカルチャーにおいても、好んで学園を舞台にした作品が作られているように思われる。


 『おもひでぽろぽろ』は、何度も言うように、昭和41年が舞台であり、『ちびまる子ちゃん』は昭和39年(1974年)が舞台である。しかし、だからといって、これらの作品は、その当時に小学生だった人しか楽しめないというものではないだろう。この点こそが、ノスタルジーの虚構的なところである。その当時、生まれてすらいなかった人にも、そのような昔の生活に懐かしさを感じるところにこそ、ノスタルジーの本質を見出すべきである。


 こうしたことは、27歳になったタエ子が田舎の風景を見て懐かしさを覚えるときに問題となっていることと同じである(あるいは、タエ子が田舎に行くことそれ自体において問題となっていることと同じである)。そこで感じられた懐かしさは、単純な過去の再現とは別の何かなのである。


 以上のようなノスタルジーの虚構性について、次回もまた、『おもひでぽろぽろ』を取り上げることによって、問題にしていくことにしたい。