都会からのまなざし、現代からのまなざし

 『ジャングルはいつもハレのちグゥ』のアニメを見返していて気づいたことがある。それは、この作品の舞台であるジャングルとは、都会と対照的な位置にある田舎のことだ、というものである。この作品の優れているところは、まさに、そのような、都会/田舎という対立軸を、ジャングルというファンタジックな装いの下に、シュールに提示したところにあるだろう。
 サブカルチャーにおける地方性の問題については、以前にも、何度か書いたことであるが、この問題を歴史的に辿っていくことは、非常に興味深い試みになることだろう。最近の作品の傾向は、地方都市に都会からは失われてしまったものを見出すというものである(例えば、互酬的価値観)。『奥さまは魔法少女』が典型的であるが、そこで地方都市は、ひとつの完結した世界として提示されている。『奥さまは魔法少女』が示しているのは、地方都市には外部がない、ということであり、言い換えれば、そこには、過不足なくすべてのものが存在している、ということである。
 こんなふうに、田舎に積極的な価値を見出す観点は、古くから存在したと思われる。『アルプスの少女ハイジ』のような作品も、そうした対比が提示されていた作品だったと言える(アルプスの山とフランクフルトの都市との対比)。しかし、過去の作品と現在の作品との間に多少の差異が見出されるとすれば、それは、作品の根底にあるまなざしに関わっている。つまり、簡単にまとめてしまえば、地方人が都会人を見るまなざしが問題になるのか、それとも、都会人が地方人を見るまなざしが問題になるのか、ということである。
 私屋カヲルのマンガで田舎を扱ったものがあったが(確か『コットン200%』)、その作品で問題になっていたのは、まさしく、地方人が都会人に向けるまなざしである。そのまなざしが持っている意味とは、憧れとか羨望といったものだが、このマンガでは、そうしたまなざしの持つアンビヴァレントな傾向が示されている。つまり、自分もまた都会に憧れを抱いてはいるが、しかし、都会にそのような憧れを抱くことに多少の違和感も持っている、というような感情である。このようなマンガが出てくるのは、一種の価値観の相対化、つまり、地方人が都会人に憧れを持っているだけでなく、都会人もまた地方人に対して羨望のまなざしを向けている、というような相対化が進んだ結果であるだろう。
 こんなふうに考えてくると、最近の作品で描かれる地方都市は、そのような、対照的な場所にまつわるまなざしとは少々異なるまなざしによって見られていると言えるだろう。『苺ましまろ』のような作品を考えたときに、そこで物語の舞台となっているものとは、歴史からも地理からも切り離された独特の時空間だと言えるだろう。それは現代ではあるが、しかし、時間軸から切り離されており、そこは特定できる地方都市であるが、しかし、日本のどこにもない場所である。こうした特異な場所が、最近のサブカルチャー作品では提示されているように見える。
 この点で、『かみちゅ!』で扱われている昭和後期の文化というものは、考察に値する題材だろう。そこで重要なのは、ある種の遅れ、ある種の遅さなのである。『かみちゅ!』で、一日中、炬燵に入っている話があったが、この話が成立するためには、ある種の遅れが必要だろう。というのも、性能のいい暖房装置があれば、ずっと炬燵に入っている必要はなくなるし、リモコンテレビや携帯電話があれば、炬燵から出るのを嫌がる必要もないだろう。そうした点で、この物語の根底にあるのは、現代人が過去人に向けるまなざしであると言えるだろう。そこでは、ある種の不便さが憧れの対象となっているのである。
 場所という観点はやはり重要なものである。それは、作品の大雑把な見取り図を描くときに非常に役に立つ視点であると言えるだろう。僕が最近関心を持っているのは、そこで日常生活が描かれる内在的な場所のことである。つまり、その場所の外に関しては何も描かれず、ただただ、その中での日常生活だけが描かれるといった、そうした場所のことである。この場所の特殊性は、おそらく、セカイ系の場所と比較したときに、非常によく際立つものである。この点に関しては、別の機会に、詳しく述べてみることにしたい。