ハーレムアニメのタブー

 『おくさまは女子高生』のアニメを最後まで見た。
 この作品が描いているのは、まさに、ひとつのタブーの存在であるが、そのことによって、逆に示されることは、現在、確固たるタブーなど存在しない、ということである。言い換えれば、何かそこにはタブーが存在しなければならないが、何がいったいタブーであるのかは自明ではない、ということである。その点で、あらゆるものがタブーになりうるし、何かをタブーにするよう、われわれは常に急き立てられているということである。
 こうした観点から見るのであれば、いわゆる「ハーレムアニメ」とは、タブーの問題を扱ったアニメだと言えるだろう。そこには、「ハーレム」という形容とは矛盾するひとつの命令がある。それは、すなわち、お前は無数にいる女の子のうち、誰でも選ぶことができるが、最終的には、ただひとりしか、選ぶことができない、というものである。そして、しばしば、その「ひとり」が誰であるのかが自明であるような作品がある。そのような作品においては、主人公の男の子とその選ばれた女の子との間に、一時的なタブーが存在し、そのタブーが存在している限り、主人公は、擬似的なハーレム状態に置かれるが、タブーが消え去ると、最初に選ばれたひとりの女の子と結ばれることになる。
 まさに、この点で、『おくさまは女子高生』も、ハーレムアニメの一種だと言えるだろう。そこにあるのは、非常に不自然な偶然性の介在である。恭介と麻美のカップルの間に何らかの邪魔者が入りこむことによって、この物語は展開するわけだが、この邪魔者の偶然の介入は、作品構造のレベルで言えば、それは常に要請されていると言えるだろう。というのも、ある邪魔者がいなくなっても、別の邪魔者がまたやってくるからである。
 つまるところ、ここに見出されるのは、物語は始まる前からすでに終わっているということであり(恭介と麻美がどのようなロマンスを経て夫婦になったのか、という前史の物語はすでに終わっている)、作品レベルでの課題とは、この物語の終末をいかにして先延ばしするのか、ということだけなのである。