『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ

 ひとりになること、ひとりでいることとは、対象化する視点を持つということである。孤独であるということは、何かから距離を取るということである。第9話において、五郎は、自分の過去から距離を取る。そこにおいて、五郎は、単に、昔のことを思い出しているわけではない。昔自分が歩いた道を歩き直し、昔自分が食べたものを食べ直しているのである。第9話の最後で、五郎は、他の客たちがトンビの群れを眺めているその光景自体を、少し距離を置いて、眺めている。この距離感が彼の過去に対する距離感と重なるのである(「季節はずれの海とトンビの群れ……か。さえない思い出の脇役にピッタリかもしれん」)。


 孤独であるということは、自分自身もそこに属している風景から自分自身を差し引くことである。その場にいるにも関わらず、あたかもその場にいないかのように、自分も含めた風景全体を対象化して眺めるということ。こうした内省的態度、反省的態度が、言ってみれば、われわれが普段見ている風景(もっと言えば世界)の別の側面を垣間見させてくれるのである。


 吾妻ひでおの短編マンガに『冷たい汗』という作品があるが、この作品が描いているのも、まさに、そのような距離感、世界の別の側面である。この作品で抑制されているのは音である。実際には騒々しいはずのSF大会を描きながらも、そこからは非常に多くの音が抜き取られている。村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「音抜き」というものが描かれていたが、それと似たような形で、この吾妻ひでおの作品においても、多くの音が抜き取られている。


 とりわけ、そこで中心的に抜き取られているのは、他人の声である。本当は、そこで、多くの会話がなされているはずである。しかしながら、この作品においては、他人の声が抜き取られ、あとに残るのは、主人公(吾妻ひでお)のモノローグだけになる。それゆえ、そこに立ち現われるのは、静寂な世界であり、それはまた、寒々とした世界でもある。夏の盛りのSF大会という、騒々しく暑苦しい世界が、静かで寒々とした世界に変貌しているのである。この変貌をもたらしたものこそが、主人公の孤独であり、「冷たい汗」がもたらす周囲との距離感なのである。


 同様の距離感は、例えば、梶井基次郎の『檸檬』の一節に見出すことができる。

 ときどき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへと想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

 ここでの試みとは、風景を別のものに変貌させようとする試み、現在見ている風景に別の意味を与えようとする試みである。そこで変貌するのは、風景それ自体というよりも、それを見ている「私」自身のポジション、「えたいの知れない不吉な塊」に終始さいなまれている「私」の状態だと言える。


 端的に、「私」は、自分の実存から逃れ出ようとしていると言えるだろう。「私」がこの「私」ではなくなること。それは不可能なことだと言えるだろうが、しかしながら、内省的な視点を導入することによって、擬似的に、「私」自身から離れることは可能であるだろう。こんなふうにして、何者でもないものになること、風景をただ単に眺めるだけの視点人物になるということ、そうしたことを行なっているのが井之頭五郎という人物だと言えるだろう。


 第9話で五郎が見る江ノ島の風景は、彼が最初に来たときに見ている風景と同じであるが、しかしながら、そこでの意味づけはまったく異なっている。その点で、五郎は、彼が当時の恋人と一緒にいたときには見ていなかったものを、二度目になって初めて見ていると言えるだろう。「俺はカメラの露出に夢中だったけど、もしかしたら、あの頃すでに、彼女の心は俺から離れつつあったのかもしれない」。こうした発見がなされるのも、そこに彼女がいない風景を、五郎がひとりになって眺めているからである。


 日常生活からの離脱。それが、五郎にとって、ひとつの課題であるのかも知れない。都市の迷宮をさまようという陰鬱な日常生活から、一時的にでも、自分を忘れようとするのである。日常生活において、五郎は、都市の背景となる。都市の群衆の中に五郎は埋没する。そこから離脱するために、五郎は、内省をする。常に群衆の中のひとりでありながらも、孤独になることによって、そうした都市生活から距離を取る。多くのブロガーがそうであるように、一日の生活を終えたあとに、自分をひとりにして何かについて語り始めるのである。


 ブログに何かを書くというのはどのようなことなのだろうか? ブログに書かれている内容は非常に多様であるためにそれを一概に言うことはできないだろうが、非常に個人的な、自分自身の日常生活のことを、まさに日記として、書くようなブログの記事は、そこで書かれる内容がありふれていて、目新しい発見が何もないようなものであったとしても(むしろ、そうであればあるほどますます)、そこで何かがなされたという事実の効果は非常に大きなものになりうることだろう。それは、mixiに書かれる日記のような、顔を知っている誰かが何かをなしたという事実よりもずっと、誰だかは知らない何者かが何かをなしたという事実の効果のほうが(そうした事実に与えられる意味づけが非常に小さなものになりうるために)より大きなものになりうるように思えるのだ。


 例えば、ブログに日々書かれるアニメ感想の効果とはそのようなものだろう。そこでの効果の大きさは、アニメをどのように見たかという感想の内容によって測定されるのではなく、アニメを見たという単純な事実によって測定されるのである。こうした純粋な事実の効果を最大限に体感しようと思うのならば、自分の見ているアニメを他人も見ているという共感のレベルに満足するのではなく、そこからさらに進んで、生きている他人がそこにいるということ、自分とは別の生がそこで営まれているということにまで思いを馳せるべきだろう。そこにあるのは純粋な孤独であり、純粋な行き詰まりであり、純粋な絶望である。


 そこには多様な人間がおり、多様な生活があり、多様な考えがあることだろう、というふうに多様性を想定することは、他人をイメージ化するという罠に陥りやすい。他人をイメージ化することは、共感や同情をもたらすが、同時に、羨望や嫉妬ももたらす。日々のブログで攻撃の対象になっているのは、このようにしてもたらされたイメージ化された他人であるだろう。そうした、言ってみれば、自分自身の影の存在としての他人と闘うよりも、ネット上での孤独に留まるほうがより賢明ではないだろうか? 無論、ネット上での様々なコミュニケーションには有益なものもあるし、むしろ、ある点においては、様々な交流が積極的になされるべきであると思うが、それとは別の水準で、まさに、孤独な存在としての他人との連帯を強化すべきではないだろうか? それは、孤立した者同士の連帯であり、逆説的な言い方をすれば、実質的な連帯なき連帯である。


 純粋な意味で孤独な存在がそこかしこにいるということ。つまり、死ぬべき存在としての人間がそこにいるということ。そして、その人間が生きているということ。そうした純粋な生の水準は、闘いが別の場所でも行われているということを示唆している。闘いが別の場所で行なわれていて、その場所で闘っている人物こそが、まさに、自分と真に連帯している戦友でありうることだろう。こうしたことが、つまるところは、孤独に留まるということであり、自分自身の闘いを続けていくということである。


 自分自身の孤独を意識すると同時に、他人の孤独にも思いを馳せること。これが連帯の可能性を模索するための課題なのかも知れない。ブログにアニメの感想を書く人物とは、ひとりでアニメを見てその感想をひとりで書いた孤独な人物以外の何者でもない(多人数でアニメを見、多人数で感想を書く人物がいたとしても、その経験の一部には常に孤独な部分が残るはずである)。もちろん、われわれは、そうした感想から、それ以上のことを常に過剰に読みとって、そこに様々な意味づけや価値づけを付与してしまうことだろう。そうしてしまうことは避け難いことではあるが、そうした意味づけや価値づけを超えて、他人の孤独な存在に思いを馳せることができた瞬間こそ、振り返って、自分がブログを書くことの意味を再発見できる瞬間でもあるだろう。


 こうした瞬間を、五郎は、食事という行為を通して、再発見しようと努めているように思える。『SPA!』に掲載された特別編の言葉を再び引用すれば、「それでも、ひとり、食べるんだな」と思うときこそが、五郎が他人の孤独に(そして自分の孤独にも)思いを馳せている瞬間なのである。(次回に続く)