『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声

 今回は、まず、『SPA!』2008年1月15日号に載った『孤独のグルメ』の特別編から話を始めたい。


 この特別編の舞台は病院である。つまり、病院食を食べる井之頭五郎の姿が(半ばパロディ的に)描かれるわけである。これまで、この『孤独のグルメ』論で問題にしてきたことの文脈から言えば、病院という場所は、孤独な都市生活者にとって、ほとんど唯一の休息の場所だと言えるだろう。そこは、また、近代文学者にとっての安らぎの場所でもある。極言すれば、近代文学者にとっては、病気(精神的にも肉体的にも)であることが過酷な日常生活を送るための防衛措置となっているのであり、同様のことは、都市生活者にとっても、ある程度、言えることなのである。孤独な都市生活者は、出口のない迷路の中を当てもなくさまよい続けて、最終的には行き倒れて死ぬわけだが、その前に、一種の予行演習として、病院に運ばれるわけである。病気や怪我が治って退院したとしても、そこから、また再び、放浪の生活が始まるのであり、その点で、病院は一時的な安らぎの場所に他ならない。


 病院では、日常生活とは異なる速度で時間が流れる。「夜は長い」し、楽しみは「3度の食事だけ」なので、五郎は、極力ゆっくりと食事を取ろうとする。しかし、だからこそ、彼の根源的な空腹は満たされない。「食べ始めているのに、さらに腹がへっていくかのようだ」。


 物を食べるというのは、いったい、何をすることなのか? 「生きているというのは体にものを入れてくということなんだな」と五郎は言う。しかしながら、第12話で描かれるように、空腹にも関わらず、食べ物が喉を通らないということもありうる。物を食べることが生きていくことと密接に関わるとしても、それは、ただ単に生命を維持していくということだけが問題なのではなく、どのように生きていくのかということがまさに問題になるわけである。


 第8話において、五郎は、「大仕事」の準備のために、焼き肉を腹の中に入れる。第13話において、五郎は、炎天下で野球を観戦し続けるために、ウィンナーカレーを食べる。こうした食事を、ただ単に、体力をつけるためにする食事というふうにも言うことはできるだろうが、そこで問題になっていることは、どのように生きるかということ、どのように生きたいかということだろう(生の目的、あるいは、欲望が問題になっている)。


 人は食事をしないと死んでしまう。死なないためには食べ続けなければならない。こうした単純な合理的思考に対して、まさに、ひとつの穴をうがつのが空腹という水準である。食べ続けなければ死んでしまうとすれば、空腹とは、まさに、死への入口であるだろう。しかしながら、空腹は、単純に、死だけを連想させるわけではない。そこにおいては、何か根本的に欠損しているものが示されるのだ。


 ハンガー・ストライキが意味しているのも、そのような欠損の水準だろう。そこでは、単に、生命が賭けられているだけではない。何かに抗議するために行なわれる焼身自殺が、その燃える肉体によって、激越な怒りを表わしているように、ハンガー・ストライキは、徹底的な不満足感を、根本的な要求を表現していると言えるだろう。そこにおいて、空腹は、生きることそのものを要求しているのである。


 こうした観点からすれば、断食という行為は、生の根本に立ち帰る行為だと言えるだろう。そこで問われるのは、われわれが生きていることそれ自体である。カフカの短編小説に『断食芸人』という作品があるが、そこで、断食芸人(断食を見世物にする芸人)は、その死の間際にあって、自分が断食をし続ける理由を次のように述べる。「わたし」は「自分に合った食べものを見つけることができなかった。もし見つけていれば、こんな見世物をすることもなく、みなさん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」(池内紀訳『カフカ寓話集』)。


 まさに、こうした水準での空腹が、井之頭五郎においても問題にならないだろうか? そして、同じことであるが、このような根本的な水準での孤独が、彼において問題になっていないだろうか? 第14話において、彼は、食べることのできなかったハヤシライスに思いを馳せる。もはや半永久的に食べることのできないハヤシライス。こうした欠損の水準は、どんなに美味しいものを食べたとしても、五郎の空腹を満たすことはないだろう(「今日の俺にはこの肉のうまささえ、どこか上滑りしていく」)。


 つまり、五郎は、言ってみれば、あえて自らを空腹の状態に置くことによって、都市生活に対してひとつの疑問を提出しているのである。都市そのものに対して疑問を提出している、と言ってもいいかも知れない。川崎で五郎が見た「巨人の内臓」。それは都市という巨人の内臓だと言えるだろう。そこに飛行機が突っ込んだら「東京が一回終る」という不穏な発想は、うがった見方をすれば、五郎の無意識の欲望の表われだと言えるかも知れない(この作品は、2001年以前に描かれているが、この発言は、当然、911の出来事を想起させる)。


 しかし、別段、五郎は、テロリズムによって、都市に対抗しようとするわけではない。むしろ、彼は、都市に奉仕する。「人間火力発電所」になることによって、都市の経済機構を円滑に運行しようとする。その点で、焼き肉とソープランドは、言ってみれば、都市のエンジンを駆動させるための一種の燃料になりうるのである。


 都市に奉仕するとは、背景的な人物になるということ、群衆になるということである。多くのマンガ作品において、群衆は、背景とほぼ同じ役割を果たしている。それは都市を表わす記号である。そうした群衆は、背景の中で、動きを止められている。別段、彼らは、立ち止まっているわけではなく、背景の中に溶け込んでいるがゆえに、動きを止められているのである(このことは、TVアニメにおいてしばしば見られる、動きの停止した通行人という表現によって、端的に示される)。


 手塚治虫が好んで描いたモブシーンの群衆は、こうした背景的な群衆とは異なる。手塚治虫の群衆は、個人の群れである。ひとりひとりが違った考えを持ち、違った生活を送っている。そうした個人の群れの中に、主要登場人物は、むしろ、埋没して相対化されてしまう。それに対して、背景的な群衆の中では、主要登場人物は、はっきりと浮かび上がるのである(この点で、谷口ジローの描き方は非常に微妙である。群衆の中から五郎を見つけ出すことは容易ではあるが、しかし、五郎は群衆の中に溶け込んでもいる)。


 手塚治虫のモブシーンが、群衆とは個人の群れであり、彼らは、ひとりひとり、違ったことを話すということを示しているとすれば、福本伸行のマンガは、群衆は独自の声を持っていない、ということを示していることだろう。「ざわ…」という擬音語は、まさに、群衆の無数の声を示しているわけだが、それは、個々人から発せられた声というよりも、その場の雰囲気そのものを指し示す記号として使われている(従って、登場人物の様々な心の揺れ動きにも「ざわ…」という擬音語が使われる)。アニメ『逆境無頼カイジ』において、この「ざわ…」は、何らかのサウンド・エフェクト(あるいは、何人かの声優が同時に違ったことを喋るという表現)に置き換えられることなく、そのまま「ざわ」と読まれる。それゆえ、この声は、個々人の水準を越えた大きな存在、ある種のシステムや巨大な機構が上げる軋みのようなものとして理解することができる。群衆とは、そうした機構の表現形態と考えられるのである。


 福本伸行のマンガでは、そうした巨大な機構を背後で操る黒幕的な人物が登場し、そうした人物の手足となって働く人々が無個性な黒服(往々にして、彼らが「ざわ…」という声を上げる)として描かれるが、そうした黒幕的人物が、実際に、都市の機構の背後にいるわけではないだろう。それゆえ、都市と闘うということは、常に敗北するということと同義である。井之頭五郎は、別段、そのような闘争を試みているわけではない。むしろ、彼は、従順で素朴な人間である。しかしながら、彼の胃が、彼の満たされない空腹が、都市の歯車になっているその生活にちょっとしたズレをもたらすわけである。


 食べるという行為は孤独な行為である。誰かと一緒に食事をすることはできるが、自分が何かを食べるということを他人に代わりにやってもらうことはできない。だからこそ、人は、他人と食事を共にしようとするのかも知れない。食事をするときに(空腹を意識するときに)直面するのは生きることそのものであり、生きることもまた、本質的に、ひとりで行なっていくことである。『カイジ』で描かれる鉄骨渡りのように、誰かと一緒に鉄骨を渡ることはできるが、最終的には、自分ひとりで鉄骨を渡っていくしかない。特別編で、五郎が、隣のベッドに寝ている老人に向けるまなざしとは、そのような、人生の先輩に向けるまなざしであると言えるだろう(「それでも、ひとり、食べるんだな」)。(次回に続く)