『孤独のグルメ』と現代人の生活(その4)――都市の背景になるということ

 『散歩もの』のコンセプトとは、言ってみれば、ひとりになると見えてくるものがある、ということである。別段、『散歩もの』の上野原譲二は孤独ではない。彼には妻がいるし、会社の同僚もいるし、昔馴染みの友人たちもいる。しかし、こうした人たちと話をしている場面から、ふとひとりになるときに、何か別のものが見えてくるのである。この点で、『散歩もの』で行なわれる散歩は、ひとりで行なう散歩である。第8話では(川上宗薫の名前を出して)妻と行なう散歩に一定の価値が与えられているが、しかし、このエピソードで、上野原自身がその妻と散歩をする場面が描かれることはない。むしろ、妻とどこかにいく場面で物語は終わる。つまるところ、この作品で問題となっている散歩は、あくまでも、ひとりで行なう散歩なのである。


 同様に、『孤独のグルメ』においては、ひとりで行なう食事が問題になっている。大阪の屋台で人々に囲まれて食事をしていても、五郎は、ひとりである。むしろ、こうした場面においてこそ、五郎の孤独が引き立ってくる。五郎は「関西弁」が苦手だと言っているが、しかし、問題となっているのは、関東の人間か関西の人間か、ということではないだろう。五郎は、ある種、自らの領域に他人が踏み込んでくることに、極度に警戒しているところがあるのだ。


 「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われてなきゃあ、ダメなんだ。独りで静かで豊かで……」。なぜ「独り」でなければならないのだろうか? この食事に対する考え方は、決して、一般的なものではないだろう。むしろ、一般的な考えは、食事というものはひとりでするよりも多人数でしたほうがいい、とされているのではないだろうか? 家族みんなで食事をするのが良しとされているのではないだろうか?


 もし、本当に、五郎が言っているような食事の取り方が理想的であるのなら、外で食事をするのでなく、家でひとりで食事をするべきだろう。しかし、五郎は、かなり積極的な意図をもって、外で食事をしているように思える。そこには、満たされない空腹の問題、満たされない孤独の問題があるのだ。


 おそらく、第11話で描かれるような食事が、五郎にとって、理想的な食事なのだろう。食べるものが美味しいか不味いか、高級な食べ物か安っぽい食べ物か、ということが問題なのではなく、どういう場所で何を食べるのかといった、ある種の環境が重要になってくる(「このとろんとした雰囲気、ずっとここにいたような居心地の良さ」)。これに対して、第12話で描かれるような食事が、五郎にとっては、最悪の食事なのだろう。五郎にとって、そこに救いはないわけである。


 救いとなるような食事とはどのような食事なのか? そもそも、そこで何が救われるのか? そこで救われるものとは、つまるところ、満たされない空腹としての孤独なのだろう。一時的にでも、満たされることが、一種の救いとなっているのである。何か食事をしたとしても、数時間もすれば、また空腹になってくる。しかし、一時的には空腹を満たすことができる。第12話において描かれているのは、空腹であるにも関わらず、食事が喉を通らなかったという事態である。ここにおいて、食事が精神状態と密接な関係を結んでいることが明らかとなる。


 この点で、われわれが、大食いの人に、ある種の憧れの感情を向けるのも、大食いという行為に、われわれが日頃経験する充足感以上の充足感、非常に長く続くオーガズムのようなものを想定しているからではないだろうか? もちろん、これは、われわれの幻想の投影だろうが、そうした点からするならば、土山しげるのマンガ『喰いしん坊!』などは、大食いの人が経験しているであろう未知なる領域を、ある種の理論的な言説によって、普通の人にも擬似的に接近可能なものにさせている作品だと言える。そこで問題となっていることは、底無しの胃ではなく、むしろ限界のある狭い胃の中に、いかにして、多くの食べ物を詰め込むかという収納の技術、狭い部屋の中にいかにして多量の物を収めるのかという収納術に似た技術なのである。


 だが、五郎は、別段、大食いではない。五郎にとってはたくさん食べることが問題ではなく、「独りで静か」に食べることが問題なのである。しかし、外で食事をするということは、多かれ少なかれ、何らかのノイズにさらされなければならないということである。そして、そうしたノイズにさらされることによって、五郎の歯車は、いつも、少しばかりズレることとなる。他人の欲望がそこに入り込んでくるのだ。従って、五郎が食事をしているときに、その周囲の環境が五郎の幻想を支えているときには、何の問題もないだろう。しかし、それが、あるとき一変して、五郎の幻想を蝕むようになったら、そこには「静かで豊か」な食事というものはなくなってしまうことだろう。


 さらに言えば、外で食事をするということは、自分が孤独であるということを過度に意識することにも繋がる。第5話で、焼きまんじゅう屋のじいさんの行く末に思いを馳せるのは、彼が孤独だからである。第3話で、「おそらく自分はこんなふうには生きられないだろう」と他人から距離を取るのも、彼が孤独だからである。第15話で、コンビニで買ってきたものをひとりで食べているときですら、ラジオから流れてくる歌謡曲が彼の孤独を引き立たせる(「遠い日は二度と帰らない、夕やみの東山」)。


 『散歩もの』に見出すことができるのも、ある種の距離感である。とりわけ、上野原は、ひとりになることによってノスタルジーを喚起する。彼がひとりになって見つけるものとは古いものなのだ。五郎にとって問題なのは、上野原が関心を持つような様々な街や物ではなく、人である。ひとりになったときに、五郎が関心を向けるのは、そこにいる他人の存在なのである。


 五郎が気にしていること、それは、おそらく、彼の存在が周囲から浮いてしまうことだろう。彼は自分がそこにいることを他人に気づかせないように心がけているが、しかし、そんなふうに過度に意識してしまうためか、そうした試みにたびたび失敗してしまう。そうしたとき、五郎は、特別な人間、場違いな人間となる。


 このような五郎の特別さが、現代の都市生活において、どれほど顕在化することになるのかは分からない。地と図という言葉を用いれば、現代の都市生活とは、ルビンの壷のだまし絵のように、いったいどちらが地でどちらが図なのかが判明としないということが起こりうるだろう。つまり、あるときは風景の一部になっていて、また別のあるときはそこから浮き上がっているのである。五郎のように、時にズレて浮き上がってしまう人間も、そのような人間が頻繁に見受けられるとすれば、それもまた、ひとつの風景になってしまうことだろう。背景になったり背景から浮き上がってきたりする人間。これが、現代の都市生活者としての井之頭五郎の姿である。


 だとすれば、第12話で描かれるような、店主と言い合いをするというような行ないは、五郎にとっては、極めて珍しいことだと言えるだろう。五郎が立ち上がり、店主に文句を言い出すのは、そこにギャラリーがいないときだけである。他の客がみんな帰ったからこそ、五郎は店主に向かってあえて文句を言い、そして、店主と格闘する。彼がそうした振る舞いを反省するのは、そこに、ひとりの異邦人の目があったからである。ある点では、五郎と同じ異邦人仲間であると言える外国人留学生の目は、五郎が背景の人間ではないことをあからさまに指摘する。異国で生活をし、その異国の習慣に従うことで、自分を背景のような人物にしようとするが、それが上手くいかない人物。まさに、五郎のような人物が、五郎の突出した行動を眺めるのである。


 電車に乗って大きな街へ行き、商店街を適当にぶらつけば、そこで、非常に多くの人とすれ違うことだろう。しかしながら、そこでの人間的接触は皆無だと言っていいだろう。これほどの人がそこにいるにも関わらず、そこでの人は背景でしかなく、それを見ている自分も、他の人にとっての背景でしかない。五郎は、おそらく、都市のメカニズムが強いてくるこうした役割に上手く適応できない人間なのである。だからこそ、彼は、過度に他人に興味を持つ。他人が自分を見ているのではないかということをいつも気にしている。しかしながら、そこから他人との交流が生まれることはなく、結局、他人との出会いは単なるすれ違いに終わるのである。


 「俺は何をしているんだろう」(第7話)、「俺…いったい何やってんだろ」(第15話)。こうした言葉が出てくるのは、五郎が自分自身を対象化して眺めているからである。背景にぴったりとはまっていない人間として自分自身のことを見ているからである。しかしながら、そこでのズレは、やはり、非常にささやかなズレだと言えるだろう。都市生活を送れなくなるほどの深刻なズレではない。五郎は違和感を持ちながらも、都市の中で生活を続けていくのである。だからこそ、食事という誰もが毎日行なっていることが、ひとつの救いとなりうるのである。食事の時間とは、言ってみれば、歩き続けるのを一時的にやめる時間、休息の時間なのである。(次回に続く)