『孤独のグルメ』と現代人の生活(その3)――都市生活者にとっての失われつつあるもの

 井之頭五郎は、ある点で、非常に自由な人間である。しかし、そのことが、彼を孤独にする。彼は、言ってみれば、土地というものから自由になった人間である。しかし、その代償として失ったものがある。その失ったものを、端的に、生活と呼ぶことができるだろう。


 「土から離れては生きられない」とは『天空の城ラピュタ』に出てくる台詞だが、ここで問題になっているのも、生活というものは土地に根ざしたものである、という考えだろう。「土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう」。ここで歌われているものが生活であり、都市の生活において失われつつあるものもまた、このような生活である。


 井之頭五郎が食事をしながらいつも横目で見ている人たちとは、このようにしっかりと土地に根を張った生活を送っている(ように見える)人たちである。実際には、その店に来ている人たちがどのような生活を送っているのかは定かではない。しかし、五郎には、ことさら、自分以外の人たちが、その土地にしっかりと根を張った生活を送っているように見えるのであり、それゆえ、彼は「おそらく自分はこんなふうには生きられないだろう」というふうに、そうした人たちと自分との間にはっきりとした線引きをするのである。


 こんなふうに、生活を送っている人たちの横をすり抜けていくからこそ、彼は、ひとりの旅人なのである。五郎は、生活を送っている人たちに、積極的に関わろうとはしない。彼はそうした人たちを横目で見ながら食事をし、ただひとりで考え事をしているだけである(「いったいみんな何の仕事をしているんだろう」「あの人はいったい何をしている人なのだろう」「どういう関係の二人なんだろう」)。アニメ『うた∽かた』の第5話で問題になっていた「観測者」の問題、ただ見ることしかできないということが、ここでも問題になっている(『うた∽かた』における観測者の問題は、もちろん、最近流行の量子論的世界観との関わりで問題になっていたことではあるが)。しかし、見ることによって何かが変わるという点で言えば、五郎は、見る人である以上に、見られる人であると言えるだろう。というのは、その土地で生活を送っている人たちの中で、唯一浮いている存在というのが、まさに、五郎だからであり、そんなふうに他者の目にさらされているからこそ、彼の数々の失敗、ズレが生み出されることになるのである。


 五郎がよく行く店、五郎が常連の店というものもあるのかも知れないが、しかし、このマンガで描かれているほとんどの店が、五郎の初めて訪れる店である。初めて訪れて、おそらく二度と訪れないであろう多くの店たち。こんなふうに作品が作られているからこそ、そこには、旅の雰囲気が漂っているのである。


 「日々旅にして、旅をすみかとす」。しかし、こうしたことは、都市生活のある側面にも言えることではないだろうか? 例えば、行きつけのコンビニの見慣れた店員が、ある日突然いなくなる、ということはよくあることではないだろうか? コンビニそれ自体が突然なくなる、ということもあるだろう。店員と客との間に会話らしい会話がなければ、そこに一定の生活めいたものが生まれようとしていたとしても、すぐさま切断が生じ、別の風景が忽然と立ち現われることだろう。


 『孤独のグルメ』と同じ久住昌之谷口ジローのコンビによる『散歩もの』を読むと、この作品の作者たちが、失われたもの、あるいは、失われつつあるものに対して、強く心を惹かれていることを理解することができる。しかしながら、『孤独のグルメ』は、『散歩もの』のように、あからさまに、失われたものへの哀愁を前面に押し出すことはない。むしろ、五郎は、都市生活者として生きているのであり、そのような生を選んだという点で、ノスタルジックになることを常に抑制しているのである。


 団塊の世代のヒッピー文化に対して、『散歩もの』の上野原は「元気でいいじゃん、オヤジたち」というふうに、自分が彼らの輪の中に入れないその距離感を自覚しつつ、ノスタルジーのまなざしを向ける。それに対して、五郎のほうは、自然食を食べて「どれもくやしいけどうまい。しかし全然もの足りんぞ」というふうにヒッピー文化を肯定しつつも、そこに不満足感を抱く。自然食は美味しくかつ健康的であるかも知れないが、五郎にとっては、量というものが決定的に不足している。五郎は決して大食いではない。従って、この量の不足とは、五郎の都市生活を構成している様々なジャンクな食べ物(量は多いが不健康な食べ物)との間の距離感を示していることだろう。上野原が失われつつあるものによってノスタルジーを感じるところで、五郎は、行く当てのない都市生活者として、失われつつあるものにただ一瞥を加えるだけなのである。


 「あの焼きまんじゅう屋、というか、あのじいさん、どうなるのかなァ、この先。ばあさんが具合悪いっていってたけど、あと5年たって……10年後……ひとりになって……この街で……」。五郎の心を占めるのは、失われつつあるもののことである。おみくじで「大吉」を引いても、五郎はその実感がまったく湧かない。五郎の人生の先には「焼きまんじゅう屋」のじいさんがいるし、このじいさんの未来にはほとんど何も見えない。実際に、このじいさんがどうなるかは分からない。問題となっているのは五郎の生活であり、都市生活者の先行きのなさである。その点で、五郎の時間の流れは、未来に向かうよりも、もっと頻繁に、過去へと向かうことになる。つまり、食事が様々なことを五郎に思い起こさせるわけである。


 五郎の食事の記憶は、家族の記憶と結びつく。そして、さらには、(別段、明示されてはいないが)母の記憶と結びつくと言えるだろう。これこそが、五郎が家族連れに向けるまなざしの意味であるだろう。とりわけ、第11話と第16話では、安っぽい食べ物が、五郎に、過去のことを思い起こさせる(これら二つのエピソードにおいては、日曜日の公園と休日のデパートという時間と場所も重要だろう)。アニメ『らき☆すた』の第6話で海の家の食べ物で盛り上がる話があったが、こんなふうに、ある種の安っぽい食べ物には、一定の場所と結びつくことによって、記憶を喚起する力がある。チェリオのメロンソーダはあからさまな例(「小学生のとき、映画館でよく飲んだ」)であるが、その他にも、ソーセージ、焼きそば、カレー、おでんといった品々が、五郎にとってのお気に入りの食べ物だと言えるだろう(第1話で、ウィンナ炒めとライスという注文を聞いて、「まるで小学校の土曜日に家で食べるお昼のようだ」と感想を漏らす五郎の意識の流れも注目に値する)。


 しかしながら、こうした記憶の喚起からノスタルジーへと物語が向かっていかないところが、この作品の稀有なところである。五郎の思い出は、『散歩もの』の上野原の思い出とは違って、発展することがない。五郎が少年時代に戻ることはない(『散歩もの』では少年の頃の上野原の回想シーンが出てくる)。五郎は常に現在を生きているのであり、彼が明確に過去に戻るのは、第11話の最後で暗示されているような幸福な夢の中だけである(唯一の例外は、第5話で描かれる、若き大女優とのラヴロマンスであるが、これは少年時代のノスタルジーとは別種のものだろう)。


 五郎は現在を生きている。彼は留まる場所を持っていないがゆえに、過去に安住することも、未来を夢見ることもできない。それゆえに、この作品には、一種のハードボイルドの雰囲気が漂っている。別段、そこでは、大きな事件は何も起きないし、五郎のことを誘惑する魅力的な女性も登場しない。しかしながら、シビアな現実に対して無口にならざるをえず、都市の生活を動かしている巨大な機構の一部にあえて自分を組み入れることによって感情表現を極力抑えつけているところなどは、ハードボイルドと形容できるように思えるのだ(「ハードボイルド」は、もちろん、大阪で五郎に対して言われた言葉であり、この人物評は、そうした点で、なかなか的を射たものだったと言えるだろう)。


 次回もまた『孤独のグルメ』を読み進めていきたい。