『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独

 井之頭五郎とは、いったい、何者なのか? 彼は、この作品においては、まず、非常に特別な人間として登場する。どこにでもいる人間ではなく、非常に特殊な人間。それは、「若き大女優」とのパリでのロマンスの思い出があるような人物である。そうした特殊な人間が、山谷という、これまた特殊な場所を訪れることによって生じる違和感。井之頭五郎の孤独がまず位置づけられるのは、こうした特殊性においてのことである。


 しかし、井之頭五郎の孤独は、徐々に一般的なものになってくる。五郎は特別な人間ではなくなり、言ってみれば、大衆の代表者のような人物になっていく。そこにおいて、問題となる孤独は、彼個人の特殊性から生み出される孤独ではなく、われわれの孤独となる。若き大女優とのラヴロマンスも、江ノ島での「さえない思い出」へと変化していくのである。


 五郎の孤独を、特殊なものではなく、一般的なものとして捉えることがぜひとも必要だろう。こうして、五郎は、徐々に、何者でもない人間になっていく。彼の個人的な情報は徐々に問題にされなくなってくる。彼はいったい何歳なのか(30代か40代だろう)、どこに住んでいるのか(東京都のおそらく23区内だろう)、家族構成はどうなっているのか(姉がいることは分かっている)、等々といったことは、もはや、ほとんど、どうでもいいものになってくるのである。


 第1話において、五郎は、ひとつの街(山谷)に迷いこむ。しかしながら、彼は、現代人であるという点で、都会に住んでいるという点で、絶えず、巨大な迷路のようなものに迷いこんでいると言えるだろう。従って、彼は、山谷でだけでなく、どの街においても、異邦人として立ち現われてくるのである(大阪で五郎が実感した「俺の座る場所がどこにもない街」という感慨が本質的である)。


 ここにおいて、前回少し問題にしたことだが、彼の欲望のズレというものが生じてくる。食べたいものが食べられないというのもひとつのズレだが、他人の欲望に引きずられる形で、自分の望んでいないものを注文してしまう、というのもひとつのズレである。例えば、第2話において、五郎は、「パッと食ってサッと出」るために、廻転寿司に入ったにも関わらず、主婦たちの欲望に引きずられる形で、過剰に注文をし、食べすぎてしまうのである(第4話で、食べ切れずに残されてしまう「岩のり」が示しているのも同様のことだろう)。


 五郎は、どの街に行っても、ある種の違和感を抱く。五郎は、渋谷という街に対して、「ここはもう俺のくる場所じゃない」と言うわけだが、しかし、彼の落ち着ける場所など果たしてあるのだろうか? 前回も問題にしたことだが、「俺は腹が減っているだけなんだ」と五郎は言う。しかしながら、彼の欲望が、過不足なく、ちょうどぴったり満たされることはない。そこでは何かがダブってしまうし、何かが残されることになる。「どこまでいってもシューマイ」であるし、焼きそばと餃子の間を「堂々めぐり」することになる。従って、彼の空腹と彼の孤独とは、ほとんど同じようなものとして理解することができるだろう。五郎は腹が減っているだけでなく孤独である。しかしながら、だからといって、彼は、ある一定のコミュニティの中に積極的に入っていこうとはしない。あるひとつの土地で生活し、そこで、その土地の人と会話をしながら食事をする。そうした光景を、五郎は、自分とはほとんど無関係なものとして、ただ眺めているだけなのである。


 こうした点で、五郎にとって、酒が飲めないという特質は、大きな意味を持っている。彼は、大人数で酒を飲むことができないのはもちろんのこと、ひとりで酒を飲むこともできない。まさに、その点で、行き先を迷っているのは、彼の孤独だと言えるかも知れない。五郎は、明らかに、他人を求めているところがあるが、しかし、他人に接近するギリギリのところで、他人から距離を取ろうとする。五郎のまなざしの先には、時に、家族の姿が現われることがあるが、しかし、五郎自身が家族を作ろうというふうに促されることは決してない。「おそらく自分はこんなふうには生きられないだろう」というのが五郎の出す結論である。


 しかし、まさに、このギリギリのところで他人と関わるというところが、非常に興味深いところである。別段、五郎は、ひきこもっているわけではない。彼は、立ち止まっているわけではなく、むしろ、積極的に迷路の中で迷おうとしている。他人の欲望の波にもまれて、ある種、自分というものを喪失していく。もっと正確に言えば、様々なズレとズレとの間において、自分自身というものを感じ取っていくのである。「俺ってつくづく酒の飲めない日本人だな…」というのも、そうしたズレの狭間から生み出されてきた自己認識のひとつであるだろう。


 満たされない空腹と満たされない孤独。「輸入雑貨の貿易商を個人でやっている俺だが、自分の店はもっていない。結婚同様、店なんかヘタにもつと、守るものが増えそうで人生が重たくなる。男は基本的に体ひとつでいたい」。しかしながら、あるいは、だからこそ、五郎は、その代償として、孤独を抱え込むのである。五郎は、ある点では、非常に自由である。五郎は、土地というものから、解放されている。しかし、だからこそ、彼は、あらゆる街で、異邦人として行動しなければならなくなるのである。


 だが、彼は、個人の水準で完結しているわけではない。他者と関わらないのではなく、むしろ、彼は、積極的に、他者の欲望の中に身を投じようとする。「俺はできるだけ物おじせず、ハッキリという。注文を聞きかえされるのはやっかいだ」。都市における店員と客との間の機能的なやり取り。そこにおいては、店員も客も、代替可能な存在であることが理想とされていることだろう。五郎も、そんなふうに、誰でもない人間として振る舞おうとする。しかしながら、五郎の入る店は、別段、ファーストフード店ではない。だからこそ、そこに、様々なズレが生じてくる。


 五郎は、山谷の店にとっては「不釣り合いな客」なので、「ぶたがダブってしま」う。五郎は、廻転寿司に行き慣れている主婦ではないので、注文の「タイミングがズレ」てしまう。「出鼻をくじかれ」、「メチャクチャ」な注文をし、食べたいものが食べられない。「なんだってこんな思いをしなけりゃいけないんだろう」と五郎は言う。しかし、これは、ある点において、五郎自身が招いたことでもあるのだ。満たされない空腹を単に満たそうとするだけでなく、より十全に満たそうと思うからこそ、彼は、失敗するのだ。よりよく計画された新幹線内での食事を乱すものは、不意に出現した他者の欲望である。シウマイ弁当よりも「ジェット」のほうがよりよく見えたのは、そっちのほうが空腹をより十全に満たしてくれるように思えたからである。この過剰な期待が彼に失望をもたらす。歯車のズレをもたらしたのは、単なる偶然の出来事ではなく、彼の実存と密接に関わっている満たされない空腹、さらには、孤独である。


 見知らぬ街で迷い続ける五郎の孤独は、果たして、どこに行き着くのだろうか? どこにも行き着かない、というのが考えられうるひとつの結論だろう。つげ義春の『無能の人』の第六話「蒸発」で描かれる漂泊の俳人・井月は「枯田の中に糞まみれとなって」死ぬ。「何処やらに鶴の声きくかすみかな」。これが井月の辞世の句らしいが、マンガの最後で描かれる行き倒れの絵こそ、孤独な生の行き着く先だろう。つまり、その生は、どこにも行き着くことなく、途中で倒れるわけだが、その周囲には「かすみ」が立ち込めている。これこそが、言ってみれば、世界の果てであり、そこにおいては、俗世間の様々な声(鶴の声)は、非常に遠いものになっているのである。


 これは悲惨な最期だろうか? 家族に見守られて死ぬほうが、やはり、幸福な最期だろうか? しかしながら、死というものが本質的に個人的なものであるとするならば(死ぬまでは誰かと一緒でも最終的にはひとりで死ぬしかない)、単純に、そうだとも言えないことだろう。誰もが、このような、世界の果てに行き着くのである。


 しかし、性急に、孤独な生の最期を見る前に、まだまだ時間をかけて、そのさまよえる生をじっくりと見ていくことにしたい。次回もまた、『孤独のグルメ』を読み進めていくことにしたい。