『耳をすませば』について(8)



 前回は、再会という主題から出発して、『耳をすませば』に見出すことができる恋愛の主題を問題化した。恋愛において再会という要素がそもそも本質的である、というのがそこでの話である。それゆえ、『ラーゼフォン』で描かれていたような二度目の恋愛(一度好きになった相手のことを、記憶を失ったあと、もう一度好きになる)は、一度目の恋愛そのものでもあるのだ。


 さて、そこから話は、「現実」との闘争の話、雫が迎えている危機の話に移行した。雫はひとつの危機に見舞われている。この点は、『耳をすませば』という物語において、核心をなす部分である。それは、映画『ネバーエンディング・ストーリー』における物語世界の危機に似たものであり、また、楳図かずおのマンガ『わたしは真悟』における「子供の時間が終わる時」という主題に非常に近いものであるだろう。


 こうした危機との関係、「現実」との闘争過程において出現してくるのが異世界や別世界と呼ばれるものである。それは、紋切り型の見方をすれば、逃避の世界としての異世界、「現実」ではない世界としての異世界である。だが、ここで、そういう世界を、「逃避」という言葉によって、すべて否定するという振る舞いは慎まれるべきであろう。というのも、そのような批判は、多様な異世界の間の差異、それぞれの異世界が持つ綾といったものをすべて無視してしまうことだからである。異世界と言っても、そこには、多様な世界があるのだ。


 さて、まず、出発点として、異世界と現実世界との間の関係に注目することにしよう。そこには(少なくとも)二つの世界があるわけだが、そこで注目されるべき第一のものは、二つの世界を繋ぐものとしての通路である。いったい、二つの世界がどのように接合されているのか? そこに、われわれの想像力の傾向性を見出すことができるだろう。


 まず、問題となるのは、異世界への入口である。人はどのようにして異世界に行くのか? 『千と千尋の神隠し』で描かれていたのは、洞窟である。山の斜面にぽっかりと空いている穴、その穴の先に異世界が広がっている。こうした想像力は、もちろん、『不思議の国のアリス』にも見出すことができるものである(ウサギの巣穴)。つまり、重要なのは空間に空いた穴だ、ということである。


 そして、そのような穴について、しばしば描かれるのは、空間に空いた穴に厚みがない、ということである。『ドラえもん』の「どこでもドア」が典型的なように、そのドアの先には別の空間が広がっているのであり、元にいた空間の地点から考えるのであれば、その穴は厚みのまったくない穴ということになる。


 このような厚みのない穴は、『ドラえもん』でしばしば描かれるものである。タイムマシンで過去や未来に行ったときに、空中にぽっかりと空いた穴がそれである。また、それは、空間を超える様々な道具にも見出すことができる。四次元ポケットの穴もまた、そのような厚みのない穴だろう。


 『ドラえもん』という作品を介して考えると、そこで問題となっていることが空間の短絡(それゆえ、それは時間の短絡でもある)であることが分かる。『ドラえもん』だったか何の作品だったかは忘れたが、紙の両端に印された点Aと点Bとの間の最短距離は、AB間の直線距離ではなく、紙を折り曲げて点Aと点Bとを接着させることだ、という話があった。まさに、この発想に見出されるものが、空間の短絡である。


 二点間を短絡的に結びつけるという発想は、SF作品でしばしば描かれるワープの発想でもある。宇宙船が、ある地点から姿を消し、別の地点に現われる。興味深いのは、そこでの短絡において、しばしば、そのニ点間を繋ぐ通路が存在する、ということだ。つまり、点Aと点Bとの間に、『千と千尋』に出てくるような洞窟めいたものがある、ということである。『トップをねらえ!』に描かれていたワープホールがその一例だろう。


 それゆえ、異世界と現実世界との間の関係を問題にするに当たっては、まずは、同一世界内での空間の短絡についてよく考えてみるべきだろう。紙の喩えで言えば、点Aと点Bを短絡させた紙を真ん中で二つに切れば、そこで異世界に対するヴィジョンが出来上がる、ということである。


 重要なのは、やはり、穴の存在であり、また、その変奏である扉の存在である。扉というのは、単純に言って、穴に蓋をしたものである。扉の先には穴があるわけである。この点で、どこでもドアもタイムマシンも四次元ポケットも、同様に、空間を短絡させている穴だと言える。


 扉が異世界への入口になっている作品は、たくさん存在する。『メルヘヴン』や『鋼の錬金術師』がそのような作品だろう。また、『今日からマ王!』や『十二国記』に見出すことができるような水面というモチーフも重要だろう。水面というのは、扉と同じ役割を果たしている。水面の先には奥行きを持った空間が存在しているわけである。その先の空間を覆っているものとして、水面は扉と同じ役割を果たしているわけである。


 さて、空間と空間とを繋ぐものとしての通路の役割にもっと注目してみよう。なぜ、空間と空間とが直接短絡せずに、そこに通路があるのか? それは、おそらく、われわれの中に、何かとの対面を直接避けさせるものがあるのだろう。つまり、直接目的地に向かうのではなく、ちょっとした回り道が必要ということである。


 その点で、『ドラえもん』や「タイムボカン」シリーズで描かれていたような時間旅行の行程に、自動車に乗って隣の街に行くのと同様の感覚を見出すことができるだろう。その点でやはりショッキングなのは、「どこでもドア」のような直接的な短絡なわけだが、しかし、そこにも、ドアを開けるという行程が一回入ることによって、直接的な短絡は避けられている。


 この問題は、突き詰めて考えてみれば、内と外との区別の問題である。内と外とを分け隔てるためには、そこに、何らかの線引きが必要である。つまり、逆に言えば、線があることによって初めて、そこから、内と外との区別が出来上がるわけである。この点で、穴も扉も水面も壁も、すべて線の役割を果たしている、と言うことができるだろう。


 そうだとするならば、異世界の要請とは、そもそも、線引きの要請だと言うことができる。それは、何かと何かとを分けることの要請でもある。『耳をすませば』の雫の危機の話に戻れば、そこで雫は、何かを分ける必要性に駆られていたわけである。逆に言えば、雫の直面していた危機とは、何かが混同されてしまう危機、そこに区別というものがなくなってしまうという危機、「現実」というものが相対化されないことの危機だったわけである。


 線引きをすることによって得られるものとは、「現実」を「現実」として指し示すことができるようになる、というものだろう。「現実」が全体化されることなく、部分的なものに留まる、ということである。異世界は、まさに、このようにして、部分的なものを生み出す役割を担っている、ということが言えるだろう。


 注目すべき点は、猫のムーンに向かって言った雫の台詞「本を読んでもね、このごろ前みたいにワクワクしないんだ。こんなふうにさ、うまくいきっこないって心の中ですぐ誰かが言うんだよね」である。ここで雫に起こっていることとは、簡単に言ってしまえば、可能性の切り詰めである。「ありえること」が徐々に「ありえないこと」に変換されているわけである。あるいは、もっと正確に言えば、そこに、「ありえること」と「ありえないこと」という弁別基準が生じた、ということである。その結果起こることとは、のっぺりとした世界の出現、平板化した「現実」世界の出現、「コンクリートロード」の出現である。


 「森を切り、谷を埋め」ることによって出現した平板化された世界。その世界は、宮崎駿がノスタルジックに描いた『となりのトトロ』のような世界とは真逆にある世界だろう。『トトロ』の世界とは、そこに奥行きが存在した世界である。まっくろくろすけやトトロが存在する場所があった世界である。しかし、現在の平板化した都市の世界には、「となり」にトトロが存在する余地などまったくないわけである。


 この点で、「カントリーロード」とは、「コンクリートロード」の曲がり角に見出される道だと言うことができるだろう。カントリーロード(ノスタルジーの入口)が生み出されるためには、平板化された直線的な道ではなく、皺曲線が必要なわけである。このような曲線こそが、まさに、異世界への入口に変わるようなものなのである。


 今日は、ひとまず、異世界の入口を描いてみた。次回は、異世界の中を少し探索してみようと思っている。