アニメーションにおける風景の問題

 この前、『ニルスのふしぎな旅』について文章を書き、そこで僕はこのアニメの自然の風景について指摘したわけだが、この自然の風景は、当時のアニメーションにおいては、アメリカ的な都市の風景、つまり、消費社会的な当時の日本の風景に対する一種の対抗軸の役割を果たしていたのではないだろうか。こうした観点から、アニメーションにおける風景について、僕の考えていることをちょっと素描してみたい。


 自然の風景が消費社会的な都市の風景に対する対抗軸になっているということ。これは、世界名作劇場の一連のアニメ、それからスタジオジブリのアニメについて特に言えることである。そこで描かれる19世紀から20世紀初頭にかけての地方の風景、外国の風景は、その当時の日本の都市の風景の変質と密接に関わっているような気がする。おそらく、1960年から80年くらいの間に日本の風景が大きく変質したのではないかと思うのだ。
 アニメーションの領域においても、アメリカ化された風景、つまり、消費社会的な風景が描かれることがある。例えば、『魔法使いサリー』(1966-1968年)などは、『奥さまは魔女』などのアメリカのドラマの影響が多大にあったと思われるが、アメリカ的な消費社会的な価値観と魔法というアニメーションの特質のひとつとを上手く結びつけて提示していた作品だと言える。
 こうした作品に示される消費社会的な価値観に対する抵抗が、自然の風景に基づいた世界名作劇場のようなアニメを生み出したのではないかと思うのだ。つまり、ここにおいては、消費社会的な風景が非本来的なものとして、自然の風景が本来的なものとして捉えられているわけであり、必然的に、動物を描き出すことが何か本来的なものを描き出すことと密接に関わるわけである。
 『ニルスのふしぎな旅』においても、そこで描かれるのは都市の風景ではなく地方の風景だ。そこには美しい自然の風景(北欧の風景)しかない。『ニルス』という作品が一種の道徳的な価値観を指し示すために作られているとしたら、それが可能であるのは、こうした自然の風景という土台があってのことだろう。


 アニメーションの風景ということで言えば、スタジオジブリの諸作品の風景はやはり注目に値する。ジブリ現代日本の風景をリアルに描き出すようになったのはいつなのかというふうに問うのは重要なことだろう。例えば、『となりのトトロ』(1988年)においては、昭和30年代の地方の風景が、世界名作劇場の外国の風景と同様な機能を果たしていたと言える。しかし、『トトロ』と同時上映の『火垂るの墓』においては、そのラストに、現代の風景が少しだけ描き出される。過去の日本の風景をリアルに描出するという志向性が現代のほうに向かった瞬間だと言える。
 『火垂るの墓』に続く高畑勲の作品、『おもひでぽろぽろ』(1991年)もまた、ひとつの重要な通過点である。そこでは、現代の都市の風景/地方の風景が対比させられ、さらには、過去の風景と現在の風景とが対比されている。そこで対比させられているのは、もちろん風景だけではなく、そこでの生活様式の違い、価値観の違いである。『おもひでぽろぽろ』においても、現在の都市の風景がストレートに描き出されることはない。
 『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)を経て、1995年の『耳をすませば』が決定的である。この作品では、現代の風景が真正面から描き出される(都市の風景とまでは言えないだろうが。そこで描かれるのは郊外の風景である)。この年に『新世紀エヴァンゲリオン』が放送されたことを考えるのなら、やはりこの時点がひとつの節目になるのだろう。『エヴァンゲリオン』においては都市の風景が描かれるのと同時に、様々な商品(記号的な消費物)をリアルに描き出すという視点があった。これは、つまり、消費社会的な風景を(ファンタジーという形ではなく)リアルに描き出す視点が確立された、ということだろう。あるいは、逆に言えば、現代の風景をリアルに描き出すために、消費社会的な記号性が利用された、ということである。


 『耳をすませば』と『エヴァ』以降においては、現代の都市の風景をリアルに描き出すアニメなど珍しくなくなった。しかし、そうした風景にどのような意味を込めるかというところでアクセントの大きな違いがあり、そこに何らかの価値観の変化を見出すこともできる。
 例えば、新海誠の描き出す風景は『エヴァ』によく似ているが、そこで商品に向けられているまなざしは、時代性というものと密接に関わっている。あるひとつの時代、過ぎ去っていつの間にか見えなくなってしまう一時代の風景を描出するために新海は商品を利用する。商品に当てられる光は、そうした商品が短い生命しか持ちえないということを示している。つまり、商品を持ち出すことは、必然的に、ある特定の時代を描き出すことになってしまう。新海誠の喪失感のテーマと商品の記号性との相性は非常にいいわけだ。
 京都アニメーションもまた、商品に光を当てるが、それは新海のように時代性を映し出すためではないだろう。京アニが狙っているのは、おそらく、キャラクターと関わる何かであり、キャラクターに何か現実的な支えを提供するために、そうした商品が(あるいは特定の場所が)必要になってくるのだ。


 ざっと素描してみたが、アニメーションにおける風景という観点で問題化できることはまだまだたくさんあるように思う。消費社会的な欲望に関しても、それが現代においてはどうなっているのかという点はひとつの問題であるだろう。リアルなものへの志向性がひとつあり、虚構に対する志向性もまたひとつある。このあたりをどのように分節化して、過去と現在とをどのように区別すればいいのか、という点がひとつの課題である。