ゼロ年代末の一風景――『亡念のザムド』の感想

 『亡念のザムド』を最後まで見たので、ちょっと感想を書いておきたい。
 今年は『エウレカセブン』の劇場版も見たので、『エウレカ』と『ザムド』についていろいろと考えた年であったが、しかし、僕としてはこの路線はちょっといただけなかった。いったいどういう路線なのかということを明確にするのは難しいが、『エウレカ』や『ザムド』で提示されたようなアニメのスタイルが厳しい状況にあることだけは間違いないと思う。
 まず、『ザムド』に関して言えば、『ザムド』は非常に小さな話を描いた作品だと思った。別に小さな話を描くこと自体は悪いことではないが、『ザムド』は、ある種、大きな話の形式の下に小さな話を提示しているので、そのバランスがかなり悪いと思った。つまり、この作品で実際に描かれているのは、様々な登場人物たちの複数の小さな物語なのだが、それが世界の危機などという大きな物語に接続しているかのように見せかけているところにちょっと無理があるのではないかと思った。
 現在大きな物語を描くことが非常に厳しい状況にあるということは、巨大ロボットアニメがほとんど作られていないという状況を考えても理解することができる。『エウレカ』において辛うじて登場することができていた巨大ロボが『ザムド』には登場しないし、前のクールの巨大ロボアニメと言えば『真マジンガー』だけだったと思うし、『真マジンガー』にしても、ある種の回顧という括弧づけの下においてのみ成立することができたアニメだったと言える。
 『真マジンガー』は、ある種、『グレンラガン』と非常によく似た作品構造を持っていたわけだが、この二つの作品が近年成立することができていたのも、そこに一種のネタ的な観点があったからであったように思う。つまり、もはや巨大ロボットアニメが成立しないということを前提した上で、これらの作品があえて作られていたところがあったように思うのだ。そういうネタ的な観点を持ち合わせていない、ある種非常に真っ当なアニメである『ザムド』は、それゆえ、非常に厳しい勝負をしているという印象を受けた。
 いったい『エウレカ』や『ザムド』がどのような文脈の上で作品を作っているのかということが問題なのだが、今年公開された『エウレカ』の劇場版を見ていて思ったのは、この作品が過去の様々なアニメ作品(とりわけ巨大ロボットアニメの系列)の集積の上に成立している作品であり、そうした過去の作品(『ガンダム』とか『イデオン』とか『エヴァ』とか)のテーマなりモチーフなりをいろいろと喚起させる、ということである。そうした想起が、それでは、この作品においては、ある種の総合(アニメの歴史の現在)に達しているかと言えば、そんなことはなくて、ただ単に過去の作品の喚起で終わっていたような気がしたのだ。


交響詩篇エウレカセブン』の劇場版を見てきたけれども
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090503#1241340418


 まあ、そんな感想を抱いたので、『エウレカ』の映画を見たあとに、上のような感想というか文句を書いたわけだが、それとはちょっと違うけれども、やはり似たような不満を『ザムド』にも抱いてしまったわけである。
 ちょっと話は異なるが、今年公開された『ヱヴァ破』について思ったのだが、この作品は果たして巨大ロボットアニメだと言えるのだろうか。作品の形態としては、これは巨大ロボアニメであるが、しかし、その内実はもっと別のものではないのか。つまり、『エヴァ』において、大きな物語が成立しないという限界を引き受けて、なおかつそこで大きな物語を提示しようとしたときに、まさに持ち出されてきたのが個人の内面世界ではなかっただろうか。大きな物語を提示していたのが、いつの間にかに、個人の小さな物語にすり替わっていたのが、まさに『エヴァ』という作品ではなかったのか。
 新『ヱヴァ』と旧『エヴァ』との差異はあるにしても、『エヴァ』という作品がそのような限界を抱えていた作品だったとすれば、『ガンダム』や『エヴァ』、そして、宮崎駿のアニメなどの文脈の下に作られているはずの『エウレカ』や『ザムド』が同種の問題に直面しないわけにはいかない。
 もちろん『エウレカ』と『ザムド』との間にも問題の解決の仕方に差があるが、『ザムド』においては、そこでの亀裂がかなり目立つようになってしまった、という印象を受けた。つまり、そこには、言ってみれば、われわれひとりひとりがどんなに頑張ろうとも、世界の流れといったものを変えることはできない、あるいは、そういった世界の流れというものから切り離された存在がこのわれわれなのだ、というような深い諦念の影が見出せるのである。
 物語の出口としては世界が変わったように見える。しかしいったい何が変わったというのだろうか。むしろ、僕が印象づけられたのは、そうした大きな変化から根本的に切断された人たちの生き方であり、まったく空疎で不毛に見える仕事を、それでもなおかつ、ひとつひとつ積み上げていかなければならない、そのような小さな生である(とりわけそうした生は主人公の父であるリュウゾウの生き方に見出されるが、それだけではなく、他の登場人物たちにも同じ苦悩が見出される)。
 僕からすれば、誰も彼もが脇役であって、主人公のいない作品が『ザムド』だ、という印象を受けるのだが、もし『ザムド』がそういう作品であるのなら、その路線を徹底してほしかったと思うのである。誰かが誰かを殺したとしてもそれが何の意味も持たないような空疎な世界。それこそがまさに現代の世界だというところに僕はリアリティを見出したのだが、むしろ『ザムド』は、そうした諦念に反発して、何らかの希望を性急に打ち出そうとしているところがあった。だからかも知れないが、登場人物たちはみんながみんな、いつもイライラしていて、誰かを罵倒したり殴ったり説教したりしているわけだが、こういう焦燥感が僕にはちょっといただけなかったのである。
 物語の出口に希望があることは、それがエンターテインメント作品であるのならなおさら、あってしかるべきだが、しかし、そこでの希望はもっとささやかなものであってもいいんじゃないかと思った。ひとつ例を出せば、それは、『平成狸合戦ぽんぽこ』の最後に出ている幻想的な風景のシーンで、あそこで狸たちがやったことは何の問題解決にも繋がっていないのだが、そうした絶望の裏返しであるささやかな夢想が、強烈に人の胸を打つということもあるのではないかと思うのである。
 いずれにしても、『エウレカ』も『ザムド』もしっかりと作られたアニメだと思うし、映像的にはっとさせられる場面がいくつもあったので、見ていない人があればぜひ見ることをオススメしたい。ゼロ年代末のひとつの風景がここにある、ということは言えると思う。