アニメのプリミティブな想像力――ルネ・ラルーの『ファンタスティック・プラネット』について

 ルネ・ラルーのアニメをちゃんと見るのはこれが初めてだったが、あの独特の世界観にはやはり強く惹きつけられた。
 アニメの世界は、基本的に、想像の世界だろうから、どこでどのような点で、現実から距離を取っているのか、というところが大きな注目点になるように思える。どんな想像の産物も、無から何かを作り出すことはできないだろうから、どこかに現実の一部を含みこんでいる。あるいは、現実の要素をどのように組み合わせるかということが想像力において問題になっていることだと言えるかも知れない。
 僕は、最近の日本のTVアニメを見ていて、いつも現実のことが気になるのだが、つまり、最近のアニメ作品においては、いったい何が現実なのかということが問題になっているような気がするのだが、こういう問いを前にしたときに、いったい想像の力はどのように機能するのかということがちょっと気になる。言い換えると、「リアルである」とか「リアルでない」ということがひとつの評価基準として機能しているとしても、そのときに、何が現実的なのかということが異論の余地なく確立しているのではなく、むしろ、何が現実的なのかということが明確でないという、そういう不安定な状態がここにはあるのではないか。現実というものは、どこかに客観的に存在するものではなく、ある種の確認作業の結果、作り出されるものではないか、という気もしてくる。
 アニメにおける想像力とは、擬似的な自然法則を作り出すことにあるのかも知れない。例えば、十年くらい前に柳田理科雄の『空想科学読本』などのシリーズが流行ったことがあったが、ここで試みられていたことは、アニメや特撮作品で示されていたような擬似的な自然法則と実際の物理法則とのギャップを埋める作業だったと言えるだろう。
 われわれは、アニメや特撮で提示されていることを「リアルではない」と思い、実際の物理法則を「リアルだ」というふうに単純に思っているわけではないだろう。というのも、ある種の科学の発展は、「見かけの上でそう見えること」と「理論的な観点から見てそう見えること」との間のギャップを克服していくことにあったと思うからだ。一見したところそう見えることにこだわった考えというものを「ドクサ」と言うのだろうが、こういうドクサを克服することは非常に困難な作業であるように思える。それは、つまり、自分の実感というものを括弧に入れて何かを考えていく作業だと思うからだ。
 アニメの想像力の目指すところは、別に、科学的な真理を提示することではないだろう。ディズニーに代表されるようなカートゥーンがやっていたことは、それとはまったく逆であって、いかにして自然法則に従わないかということであったように思う。しかし、だからと言って、カートゥーンにリアルさがないわけではないだろう。カートゥーンの運動のうちには、それ独自のリアルな法則が潜在しているように思えるのである。
 ルネ・ラルーに話を戻すと、この『ファンタスティック・プラネット』というアニメで問題になっているのは、何が人間的なことなのか、ということだろう。詳しい内容については書かないが、この作品においては、二重三重の入れ子構造を用いることで、人間とは何かという問いが終始一貫して問われているように思える。人間は、精神的な存在でもあり、動物的な存在でもある。この中間的な存在の曖昧さがこの作品では輪郭づけられているように思う。
 では、そのようなことが問題になっているときに、アニメの想像力は、どんなふうに機能しているのか。僕が言いたいのは、アニメの想像力は、そこで、われわれを現実から遠ざけると同時に、ある面においては、現実に最接近させてもいるのではないか、ということだ。一見したところ人間から遠いものが描かれている地点において、極めて人間的なものが発見される。非人間的なもののうちに何か人間的なものが見出される。このようなグロテスクな経験がこのアニメには染み渡っているように思うのである。
 アニメの想像力とかリアルの問題についてはいずれまた別の機会に取り上げることにしたいが、何にしても、こういった海外の芸術アニメをたまに見ると、自分の中の、ある種プリミティブな感覚を強く刺激されるので、非常に基本的なところに立ち返って何かを考えたい気持ちになってしまう。