2009年秋の新作アニメ感想(その3)――『ミラクルトレイン』

 まず、駅の擬人化という発想がよく分からなかった。よく分からないというか、駅を擬人化することがひとつの作品をどういう方向に導いていくのか、という方向性がよく見えなかった。
 しかし、これは、よく分からなかったから面白くなかったということではなくて、むしろ逆に、今まで見たことのないものを見せられたという点で、ある種の新鮮さを感じた、ということである。
 この作品は、当然ながら、女性向けの作品だろうから、僕が気になっているところが、この作品において重要ではないのかも知れない。しかし、駅の擬人化という発想は、電車の擬人化、あるいは、何らかの物体の擬人化とは、大きく異なるような気がするのだ。
 駅とは何かというふうに考えると難しくなるのだが、駅において重要なのは、その建築的な側面、つまり、その構造的な側面であるよりもむしろ、ある種の場所の問題、路線上の地点と地点との関係性の問題、等々といったものを取り扱っているのではないだろうか。つまり、何か物体が問題になっているのではなく、もっと包括的な空間が問題になっているような気がするのである。
 それなりに腑に落ちたのは、第1話の最後の場面で、駅たちは常にそこにいる、ということが示唆された場面である。駅たちが常にそこにいるというのはやはり変な言い方になってしまうのだが、つまるところ、人々を見守る視点が常にそこにはある、ということである。これは「マリア様がみてる」というのと同じで、ここで問題になっているのは、誰かが特定の場所から見ているということではなく、誰かを常に見守っている視点が存在する、ということである。
 何らかの物体に対する愛着は、それがフェティシズムなどと呼ばれることもあるのだから、ある種の擬人化が起こるのはよく分かる話なのだが、それに比べると、駅は、構造物として見れば単なる空間、あるいは、人が乗り物に乗るための単なる目印というふうにしか思えないところがあるので、いったいどこに擬人化の生じる余地があるのか、僕にはよく分からないところがある。
 こういう観点から考えると、これまた女性向けの作品である『ヘタリア』なんかも、国の擬人化というところに多少の違和感を抱かないわけでもない。しかし、国を主体として捉えることもあるわけだから(つまり、「アメリカは〜した」とか「日本は〜した」という言い方が日常的になされる)、そういうレベルでは理解できないこともないが、別にそういうことがこの作品の人気において重要であるようには思えない。つまり、『ヘタリア』を単なる風刺マンガとか風刺アニメとして捉えることができないところがある、ということである。
 駅萌えとは駅をフェティシズムの対象とするということなのだろうか。どうも、そうは思えない。だとすれば、フェティシズム以外に、何かを擬人化する方途があるのだろうか。こういうことを考えながら、この作品は見ていこうと思っている。