『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』と『にょろ〜ん☆ちゅるやさん』についてのメモ

 『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』と『にょろ〜んちゅるやさん』という二つのアニメ作品を問題にするにあたっては、まず、これらの作品がYouTubeという動画投稿サイトで発表されているという、その物理的な条件について考える必要がある。
 劇場アニメ、テレビアニメ、OVAOAD)というふうに、これまで分化していたアニメの形態は、時間上の制約というものを、当然のことながら、受けていた。『ハルヒちゃん』と『ちゅるやさん』という二つの作品によって明らかになったのは、30分なり15分なりといったテレビアニメの形態が、絶対的なものではないのはもちろんのこと、そんなふうに時間を制約されることで、作品の内容にも大きな影響を与えるということである。『ハルヒちゃん』や『ちゅるやさん』を15分番組なり30分番組なりにまとめることは可能だろうが、そんなふうに15分や30分をひとつの単位として作品にまとまりをもたらすと、ひとつのエピソードが持つまとまりの意味が明確に異なってくるだろう。AパートからBパートへの移行がひとつの切断になりうるように、一話分のまとまりもまた、ひとつの切断になりうるのである。
 YouTubeという動画サイトで作品を発表することの利点とは、5分前後という短い時間の単位で、それも毎回異なった時間の長さで、作品を作ることができる、というものである。このことは、逆に言えば、長い時間の作品を作ることができないというリスクを背負うことでもあるが、テレビアニメのように特定の時間の長さに拘束されないということが大きな利点となっているだろう。
 『ハルヒちゃん』でそのことを最も良く示しているエピソードとは、第0話に当たる、「Nice boat.」ネタの「出来上がりませんでした」動画だろう。この動画が騒動を巻き起こしたのも、まさに、YouTubeにおいては、数秒だけの動画でも投稿可能だ、というところにある。つまり、この短さの中で作品が完結しているわけだから、視聴者は、そのような完結性の中から作品の意味を汲み取るしかない。テレビアニメでこれを放送するとなると、流石にこの「出来上がりませんでした」動画を15分なり30分なり、放送し続けることはできないだろう。やはり、これは、YouTubeだからこそ可能になった実験的なエピソードであり、反響の大きさから考えると、この実験はある意味成功したのではないかと思うのである。
 この「Nice boat.」ネタでいったい何が狙われていたのかということをよく考えてみよう。ここには、ある種、視聴者との間に共犯関係を築こうとしているところがある。つまり、動画が出来上がらなかったということをネタにして笑ってほしいという共犯関係を築き上げようとしているところがあったのである。ここにある前提とは、視聴者の多くが「Nice boat.」のネタを知っているということ、つまり、『School Days』という作品とそれにまつわる一連の騒動について知っているということである。こうしたことを前提として、「出来上がりませんでした」動画が発表されたなら、きっと視聴者は笑って「Nice boat.」と言ってくれるだろう、というふうに制作者の側は思っていたに違いない。
 実際に動画が出来上がっていたかどうかという事実関係は、翌日になってすぐに第1話の動画がアップされたわけだから、間違いなくこれはネタ動画だったはずだが、当日の時点では、果たしてこれがネタなのかマジなのか、そこのところを暗示させる(ネタばらしする)情報がほとんど見出されなかったというところに大きな問題があったと言えるだろう。つまり、このネタは、われわれの暗黙の視聴ルールとでもいうべきものに違反するような次元のネタだったわけであり、こうしたネタのあり方は、確かにネット特有のものと言えるかも知れないが(2ちゃんねる等で行なわれている「釣り」と似たような行為だと言える)、アニメという領域でこうしたことが行なわれたのはおそらく初めてだろう。それゆえに、視聴者の多くは、これをネタだとは思わずに、マジだと受け取ったのであり、これがネタだとしても許せないネタだと思ったのである。
 こうしたわけで、この第0話は、われわれのアニメ視聴の環境というものがテレビアニメというものにどれほど拘束されているかということ、YouTubeにおけるアニメの配信というあり方が新しい視聴環境の可能性をいろいろと秘めているということを端的に示しているのである。


 『ハルヒちゃんの憂鬱』と『ちゅるやさん』は、本家の『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメといったいどのような関係にあると言えるのだろうか。このことについて考えることは、取りも直さず、キャラクターというものについて考えることである。
 『ハルヒちゃん』と『ちゅるやさん』とを比べてみると、『ちゅるやさん』のほうが、本家のアニメよりも、キャラの設定を大きく変えているところがあるが、このような改変についてどのように考えればいいのかという問題がある。
 キャラの改変の規模が小さい『ハルヒちゃん』からまずは見ていこう。
 『ハルヒちゃん』において注目すべきなのは、キャラの頭身が本家よりも低くなっているところである。キャラの頭身を下げることには、いったい、どのような効果があると言えるのか。この点を明快に論じるのは難しいが、少なくとも言えることとしては、キャラの頭身がリアリティと関わっているということであり、頭身の高いキャラにはリアルな描写が、頭身の低いキャラにはリアルではない描写が(場合によってはギャグ描写が)求められる、ということである。あるキャラが、同じ作品内で、頭身が高くなったり低くなったり変化するということは、少女マンガなどではよくあることであり、そこでの使い分けが頭身とリアリティとの関係を端的に示していると言える。
 例えば、『まりあ†ほりっく』のアニメの次のようなシーンが思い出される。それは、主人公かなこの長いモノローグに鞠也がツッコミを入れるために介入してくるというものであるが、モノローグであるはずなのにそれがダイアローグに変化してしまうというこのギャグは、まさに、キャラクターが活動するリアルな世界とは別の次元、メタな次元からツッコミが入っていることを示している。言うなれば、このツッコミは、視聴者の視点を先取りしているのであるが、内面のモノローグの言葉を他人が聞き取ることはできないという原則は、作品のリアルな世界ではちゃんと守られている。それが別の次元に一段上がったときに(頭身としては下がったときに)、そうしたありえないことが起こりうるのであり、そうしたやり取りを行なうのが、まさに、デフォルメの進んだ頭身の低いキャラクターなのである。
 つまるところ、『ハルヒちゃん』という作品が成立するための第一歩とは、キャラの頭身を低くすることであり、そのことによって、本家の『ハルヒ』とは作品の雰囲気が根本的に異なるということ、シリアスな話よりもギャグがメインになるということを視聴者にはっきりと示しているのである。


 『ハルヒちゃん』も『ちゅるやさん』もそれ自体では自律していない派生作品であるという点で(派生作品が本家との関係を断ち切って自律するという場合もあるだろうが)、本家の作品からどのように距離を取っているのかが問題になる。
 『ハルヒちゃん』で大きく改変がなされているキャラクターとは、長門有希朝倉涼子(あちゃくらさん)だろう。ここでは、まず、長門のキャラクターの大きな変化に伴って、長門と同じく「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」である朝倉のキャラクターも大きく改変されたと言える。言うなれば、ここでの関係性とは、本家において長門と朝倉の間にあった距離が、『ハルヒちゃん』においては縮められたと言えるのである。本家においては、同質の存在でありながらも闘わなければならなかったというその敵対関係が、『ハルヒちゃん』においては、むしろ同質性に焦点が当てられる形で中和され、それなりに仲の良い友達関係に変化しているのである。
 こうした関係性の改変がなされるのも、『ハルヒちゃん』では、長門のオタク趣味に焦点が当てられているからである。これは、本家の長門が、本だけではなく、パソコンやゲームにも興味を持ったということのパロディだろうが、こうした性格の拡大解釈が、『ハルヒちゃん』において、別種の長門の存在を立ち上げたと言えるのである。
 さらに、長門について言えば、『ハルヒちゃん』においては、長門の私生活への興味というものがあるだろう。長門は、人間的な感情の希薄な、人形のような人物として描かれるが、しかし、長門にもちゃんと人間的な感情があるということが本編では何度か示唆されている。その暗示的な部分を拡大解釈したのが『ハルヒちゃん』の長門だと言える。つまり、『ハルヒちゃん』の長門は、逆にあまりにも人間的な、俗っぽいキャラとして描かれているのである。
 こうした長門の俗っぽさは、ウサギの耳のヘッドホンに端的に示されていると言えるが、彼女の部屋の描写にもそれは表われている。つまり、本編のアニメでは長門の部屋にはカーテンがないのだが、『ハルヒちゃん』では、ちゃんとカーテンで日光が遮られた一室が出てくるのである。このカーテンの部屋が出てくるエピソードというのは、徹夜してまで美少女ゲームをやっている長門を朝倉が叱るというものであり、部屋の中で長門は何をやっているのかという、まさにそのような私生活への興味をパロディ的に満たしたエピソードだと言えるだろう。
 『ハルヒちゃん』の朝倉涼子については何が言えるだろうか。頭身が下がったどころか、身体そのものが小さくなってしまった朝倉は、長門にもてあそばれる存在になってしまったわけだが、こんなふうに身体が小さくなり、長門と同居することで、その関係性にも大きな変化がもたらされている。本編の朝倉は、少なくとも、「憂鬱」のエピソードにおいては、長門とのバトルの後、もう出てくることはないわけだが、もしその後も出てくるとしたらどうなっていたかという想定が、この「あちゃくらさん」のキャラを生み出したのではないだろうか。朝倉がキョンたちの関係性のうちに介入することなく、その存在を維持できるためには、長門の部屋という暗点に住まう他なく、また、身体が小さくなることで自由に行動できないという制限を受ける必要があったことだろう。そして、行動に制限をもたらすはずのこの身体の縮小が、キャラの性格にも大きな影響を与え、長門にもてあそばれる、いじられキャラになってしまった、というプロセスがそこにはあるように思えるのである。


 『ちゅるやさん』においても、朝倉は、鶴屋さんと同じような頭身の低いキャラとして登場する。『ちゅるやさん』では、朝倉と鶴屋というこの二人のキャラとそれ以外のキャラとの間に大きな線引きがなされているのである。
 『ちゅるやさん』において、キョンハルヒといった同じ顔のキャラクターの冷淡さに対して、鶴屋と朝倉は、何かベタなものを代表している。『ちゅるやさん』においては、当然のことながら、鶴屋さんというキャラクターの大きな改変があるわけだが、これは、ほとんど新しいキャラクターの創出だと言える。本編の鶴屋さんには、ちゅるやさんが示すようなベタなこだわり(特にスモークチーズへのこだわり)と言ったものは見出せない。ちゅるやさんの「にょろ〜ん」という擬態語は――多様な意味を持っているが――、ひとまずは「がっかり」という言葉に置き換えることができるだろうが、そんなふうな落胆の気持ちを前面に出すようなキャラクターに鶴屋さんは改変させられているのである。
 『ちゅるやさん』という作品は、完全に定型化されている。それは、ちゅるやさんの期待がキョンを始めとした周囲の人間によって打ち砕かれ、その落胆の気持ちを最後にちゅるやさんが表明するという、ただそれだけである(この落胆がつまりはオチである)。そして、この形式化された展開が、様々な形で、何度も繰り返されるわけである。
 しかし、こんなふうに何度も繰り返される落胆に一種の悲愴さがあまり伴わないのは、キャラクターの位相がキョンたちとちゅるやさんとでは異なるからだろう。キョンたちの世界にとって、ちゅるやさんの存在などというものは、まるであってもなくても支障がないような、そんなどうでもいい、おまけのような存在なのである。言うなれば、ちゅるやさんは、半ば空気のように扱われているのであり、ちゅるやさんが頑張って何かをやったとしても誰かが褒めてくれるわけでもないし、ちゅるやさんが役に立たないとしても誰かが怒るわけでもない。キョンたちは何事に対しても極めて冷淡であり、感情というものがすべて剥奪されたような存在として描かれている。ちゅるやさんの持っている熱さがキョンたちの冷たさによって一気に冷えていく。そんな急激な温度の低下が「にょろ〜ん」という言葉によって示されていると言えるだろう。
 なぜ、『ちゅるやさん』においては、鶴屋と朝倉という二人のキャラクターの位相だけが異なるのかということを考えてみると、まさに、この二人のキャラクターは、本編のキャラクターの関係性に大きな変化をもたらすことはない、そうした周縁的なキャラクターだからだと言えるだろう。『ちゅるやさん』において、キョンハルヒたちがみんな同じ顔であるのは、ちゅるやさんの立っている周縁的な地点から見ると、これらの人物たちがみんな同じ性質を持っているからだと言えないだろうか。つまり、キョンハルヒたちはそこでひとつの世界を構築していて、それは言い換えるのなら、ひとつの閉じた関係性を作り上げている、ということである。この関係性からハルヒキョンといった主要なキャラクターがいなくなってしまったとすれば、そこでの関係性は大きな変化を余儀なくされるだろうが、鶴屋さんがいなくなったとしてもそれほど大した影響は与えないという、そのような中心と周縁との構造を戯画化したのがこの『ちゅるやさん』という作品だと言えないだろうか。ちゅるやさんは、ハルヒたちの世界の中に何とかして入り込んで、自分の存在の重要性を主張したいわけだが、そうした介入はいつも失敗する。鶴屋さんがメインのキャラクターになることはない。これこそが、おそらく、ちゅるやさんの期待と落胆が意味しているものだろう。