父のいない世界でゲームを続けるということ――アニメ『少年突破バシン』の感想

 『バトルスピリッツ 少年突破バシン』を最後まで見てみた。


アニメ『少年突破バシン』の緩くて狭い世界
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090609#1244550232


 『バシン』については以前、上記のような記事を書いたが、この作品に対する基本的な考えはあまり変わっていない。なので、ちょっと補足的にだけ感想を書いておきたい。
 上の記事に書いた善と悪との対立構造であるが、最終回までの展開の中で、それなりに対立構造が提出されたところがあったが(ナンバー9が悪役になることで)、予想通り、そこでの対立構造がメインに描かれることはなかった。つまり、大きな水準で誰かと誰かが対立しているという構図が描かれることはなかったように思う。
 それゆえに、最終的なバトルが父と子との闘いだったとしても、そこでの対立構造の意味が非常に希薄なものになってしまっている。言うなれば、『バシン』の最終回で描かれる父と子との対立などというものは、『カブトボーグ』の第1話で描かれる父と子との対立ぐらいの重みしかない、ということである。
 そもそも、子供向けのアニメ、さらには、男の向けのアニメにおいて、何がテーマとして問題にされるべきかという問題設定などというものは、今日、ほとんどその意味を消失しているように思える。例えば、成長などというテーマを前面に押し出している作品など、2005年の『エウレカセブン』ぐらいしかなかったことだろう。そして、『エウレカ』が紆余曲折の果てにしか成長というテーマを描けなかったとすれば、今日のアニメにおいて、成長をテーマにすることは非常に困難になっていると言える。つまり、大人になるということがどういうことなのか、そこに共通了解がまったくない、ということである。
 70年代くらいのアニメを見ていると、そこには、成長するということがどのようなことなのかという、明確なヴィジョンがあったのではないか、という気がしてくる。例えば、『あらいぐまラスカル』や『母をたずねて三千里』などの作品においては、成長することがどういうことなのかということが、明確に提示されているように思う。いわゆる「世界名作劇場」の作品のすべてが成長を問題にしているわけではないだろうが、子供にアニメを見せるとはどういうことなのかという問いが70年代くらいにはそれなりに共有されていたのではないか、という気がしてくるのだ。
 僕は、『バシン』を見始めるにあたって、『エウレカ』のシリーズ構成を担当していた佐藤大が『バシン』のシリーズ構成も担当するということを知って、『バシン』においても、『エウレカ』と同様に、成長の問題が提示されるのではないかと期待していたのだが、その期待はかなりはぐらかされることとなった。
 子供の成長を問題にするにあたって、父との対決という問題設定は、ある種の定番であるだろう。『鉄腕アトム』以来のTVアニメの歴史において、父の問題は常に問われてきたところがあると言えなくもない。『エウレカ』においても父の問題は提示されていた。しかし、『バシン』において提示されたのは父との対立ではなく、『カブトボーグ』が提示したような、父との対立のパロディであり、これはむしろ、父との対立を避けるということ、あるいは、そもそも対立すべき父がいないという、そのような新しい問題設定が提示されたということに他ならない。
 主人公の馬神トッパの家庭を少し見てみれば、父母子の三人家族であるが、家計を支えているのは明らかに母である。そして、父は、自らの夢に生き、なぜだかはよく分からないが、バシンと対立する敵の頭領になってしまっている。こういう家庭像について、現在放送されているアニメですぐに思い出すのが『アイ!マイ!まいん!』であるが、『まいん』の場合は、父と娘との関係性が問題になりうるので、ちょっと事情が違うかも知れないが、しかし、同様の家族像を探せばすぐに何か別の作品で見つけることができるだろう。
 『バシン』に話を戻せば、家庭から消えた父が、仮面をつけて子供の前に敵として現われるところなんかが、何かしら現代の問題を提示しているような気がするのだ。つまり、子供の前に子供の敵として立ちはだかるためには父は子供の幻想の世界に入ってこなければならない、ということである。ここが現代の困難ではないのか、という気がするのだ。
 思い返してみれば、『母をたずねて三千里』においてもまた、家計を支えていたのは母の存在であった。『三千里』においては、まさに、父の負債が子供に対して三千里という距離をもたらしたわけだが、これほどの距離が、これほどの困難が、今日のアニメで見出せることはほとんどないだろう。
 僕としては、こういう事態を性急に嘆くのではなく、現在何が起こっているのかということを精査に見るべきではないかと思っている。『バシン』において目指されていたのは、対立関係の存在しない、ある種、居心地のいい緩い共同体である。こういう緩さが現在、一面では求められているのかも知れないが、しかし、その代償としてもたらされるのは、平板化されたのっぺりとした世界、大きな変化が何も生じない世界というものだろう。こうした世界にどのように起伏をもたらしていくのかということが今日の課題なのかも知れないが、この課題を『バシン』に引き戻して考えてみれば、いったいどうしてバシンたちはあれほどバトスピに熱中できるのかということである。バトスピに興味のない人がこの世界で生きる術はあるのかという問題でもある。
 こんなふうに考えるとすれば、やはり、『バシン』の世界は、『けいおん』などと比べると、少々きつい世界、ゲームを降りることができない世界として立ち現われてくるところがあるように思う。つまり、ゲームをやり続けることができるのならば、そこにはそれなりに緩い関係性が立ち現われてくるのだが、しかし、ゲームを降りることは許されない。逆に、『けいおん』は、ゲームを降りることも示唆されているがゆえに、より幅の広い世界を描いているように思うところもある。
 こういうわけで、僕としては、どうしても京都アニメーションの作品に目が行ってしまうところがあるのだが、京アニの作品については、また別の機会に問題にすることにしたい。『バシン』のあとに始まった『少年激覇ダン』もこれから見てみるつもりなので、何か思うところがあったら、ここに書いてみたいと思う。