『ぼくらの』と倫理的問題(その3)――生きるとは生き残るということなのか?

 コダマの戦闘とワクの戦闘とを比較したとき、コダマの戦闘において考慮に入れられているものとは何だろうか? それは、その戦闘によって多くの犠牲者が生じるということ、闘っているもの同士の死者以外に、その戦闘に巻き込まれて死ぬ人間が多数出てくるということである。


 『ぼくらの』で描かれている巨大ロボット同士の闘いを「戦争」と呼ぶことは可能であるだろう(ただ、それは、国と国との闘いではなく、地球と地球との闘いではあるが)。現在放送されているアニメで、『ぼくらの』と非常によく似た戦闘を「戦争」と呼んでいる作品がある。それは、『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』である。


 『ギガンティック・フォーミュラ』においては、国と国との戦争が描かれるわけだが、それは、(その国にあるあらゆるものを戦争に動員する)総力戦とは違って、ニ体の巨大ロボットによる「紳士的な闘い」となっている。選ばれた二人の人間によって操縦されるロボット同士による「戦争」。このような戦争観の要請は、もちろん、現代の戦争にまつわる道徳的問題があるからである。つまるところ、現代の戦争においては(少なくとも先進国による戦争においては)、どれだけ犠牲者を少なくするのかということが課題になっていて、そうした方向性は、結果、『ギガンティック・フォーミュラ』で描かれているように、戦争に人間を極力関わらせないという方針を取ることになるだろう(これに対して、テロリズムの方法論とは、いかにして少ない犠牲によって相手に大きな損害を与えるのか、ということだろう)。『ギガンティック・フォーミュラ』で描かれているのは、戦争というよりも決闘であるが、しかし、その決闘が戦争の地位にまで高められているのである。


 『ぼくらの』と『ギガンティック・フォーミュラ』との共通点は、非常にたくさんあるが、重要な類似点は、『ギガンティック・フォーミュラ』においても、生き残りを賭けたバトルロワイアル状況が描かれているという点である。この作品では、戦争をしている国同士の間に同盟関係が結ばれることはない(負けた国が勝った国に協力することはあっても)。つまり、ここで描かれているのは、まさしく、自分以外はすべて敵というバトルロワイアル状況なのである。


 しかしながら、このように様々の点で似ているとしても、『ぼくらの』の戦闘と『ギガンティック・フォーミュラ』の戦闘とは、やはり、異なる。それは、『ぼくらの』において描かれているのも、結局のところは、二人の人間による決闘だとしても、それに巻き込まれる人たちが多数出てくる、という点である。


 この点において、主人公たちの操る巨大ロボット・ジアースの大きさは、少年少女たちが抱える責任の大きさ(その戦闘には地球の存続がかかっている)と比例していると言えるだろう(いったい、なぜ、あんなにも大きなロボットで闘わなければならないのだろうか?)。非常に巨大なロボット同士が都市で闘えば、当然のことながら、そこで多数の死傷者が生まれるわけである(しかしながら、そうしたロボットの大きさと反比例するかのように、それぞれの登場人物たちが抱える問題は非常に小さなもの、極めて個人的な問題である)。


 『ぼくらの』において、まず提起される死の問題とは、このような形での死、つまり、犠牲者の死である。この点についてのコダマの考えは非常に明快である。つまり、犠牲者の存在は「より素晴らしい勝者の糧になるのならもうそれだけで存在意義はある」。あるいは、「100億の命を救う」ためには「1万人くらいどうってことない」。


 このようなコダマの考えに、競争的関係、バトルロワイアル状況を見出すことは容易であるだろう。勝つものと負けるものがいる。生き残るものと死ぬものがいる。この二つの関係は、コダマにおいては、パラレルである。生き(残)るに値する勝者と、死なざるをえない敗者がいる。他者についての考慮がないわけではないが、それは「自分のことの次に」というわけである。


 最初に書いたように、ワクの物語とコダマの物語との違いは、ワクの物語においては戦闘に巻き込まれて死ぬ人間がいなかったが、コダマにおいては非常に多数の死傷者が出ざるをえない、ということである。このような対比は、ワクがそうなりたかったようなヒーローから、その特権性を剥奪することとなる。つまり、ヒーローが特別な地位につけるのは、彼が、共通の善に奉仕するからであり、その限りにおいてのことである。言い換えれば、ヒーローが悪をなさない限りにおいて(共通の善をおびやかさない限りにおいて)、ヒーローの行為は誰からも支持される。しかし、ヒーローが敵を排除するにあたって、多くの人が損害を被るのであれば、そのヒーローは糾弾される可能性があるのだ(このような非難されるヒーローを描いた作品として、『無敵超人ザンボット3』や『忘却の旋律』の名前を上げることができるだろう。あるいは、「正義」の戦争のツケを払わされつつあるブッシュ大統領のことを考えてもいいだろう)。


 この点において、『ぼくらの』の戦闘も、確かに、「ヒーローのやること」ではない。しかしながら、そもそも、この『ぼくらの』という作品は、主人公である子供たちを、旧来のヒーローものの作品のように、安全地帯で、道徳的な痛みを感じることもなく、戦闘をさせるというようなことをあえてさせない。むしろ、そこで目指されていることは倫理的問題を提起することであり、登場人物たちを苦境に陥れることなのである。


 この点こそが、アニメ版の『ぼくらの』がマンガ版の提出した問いに対する回答だと僕が言った理由である。マンガ版において、子供たちは苦境に陥る。それゆえ、当然のことながら、そうした子供たちをいかにして助けるのかという問題が出てくる。そうした問題に対して、家族的関係の重視という回答を提出しているのがアニメ版なわけである。


 しかしながら、前にも述べたように、僕は、この回答が極めて性急なもののように思える。まずは、マンガ版が提出している問いがどのようなものであるのか、いったい子供たちはどのような苦境に陥っているのか、ということをじっくりと考えるべきではないだろうか? 僕は、マンガ版が、その物語を終えるにあたって、何か明確な回答を提出することを期待してはいない。重要なのは、問いを提出することであって、問いを提出することそれ自体に価値があると僕は思っている。


 さて、ワクの問題は、非常に簡単に言ってしまえば、いったい何を生きがいにすればいいのか、ということであった。それは、何をすれば充実した生が得られるのか、というぐらいの問題だった(こうした問いは、様々な教育機関を始めとして、あらゆる場所で提起されている問いであるだろう。それは、つまり、「お前は何がしたいのか(何になりたいのか)」という問いである。この問いが目指していることは、生の充実という目的に従って、いかにして個々人を社会のうちに上手く回収するのか、ということであるだろう)。このレベルにおいては、人間関係というものはほとんど問題にならない。問題は、専ら、個人的なものである。それに対して、コダマのほうは、人間の生というものの前提に競争的関係を見出している。非常にたくさんの人間がいるが、生きるものと死ぬもの、勝つものと負けるものがいる。つまり、生き残るべく選ばれた勝者と、死ぬべく定められた敗者がいる。ワクにとってロボットに乗ることは生の充実を得ることと同義であったが、コダマにとってロボットに乗ることは生き残るべく選ばれた勝者になることと同義なのである。


 強いものが生き残り、弱いものが死ぬ。こうした考えを、『ぼくらの』という作品は、ワクのときと同様、あっさりと否定する。ここで否定の根拠となっているのは、誰しも人間は死ぬ、という単純な理由である。コダマの考えのうちには、「選ばれる/選ばれない」というような、ある種、超越的な観念が見出されるが(いったい誰によって選ばれるのだろうか?)、それに対して、物語の展開は、偶然的な確率の問題を提出する。つまり、コダマが理想化していたような強い父も、場合によっては、事故で(巨大ロボットの下敷きになって)死ぬこともある。ここにおいて、疑問に付されているのは、生きるとは(勝って)生き残るということだ、という考えである。より長く生きること、より充実した生を送ること。そうしたことが、勝つことと負けることという別の価値観と結びつけられているのである(いわゆる「勝ち組/負け組」のように)。このような、ある種、常識的な価値観に対して、非常に挑戦的な仕方で、疑問を提起しているのが、この『ぼくらの』という作品なのである。


 いったい、このように問うことによって、何が批判の対象となっているのだろうか? それは、明らかに、個人的な生の水準にあらゆることを還元する傾向である。個人的な生の充実を第一に考えること、個人の幸福を他の何よりも重視することなどが疑問に付されているのである。個人的な生の充実を第一に考えるとしても、人間は死ぬ。死は、人間の幸福にとって、絶対的な限界である。では、少なくとも生きている間は、個人の生の充実を第一に考えるというのは、悪い考えなのだろうか? おそらく、『ぼくらの』という作品が目指していることは、何が良い生き方で何が悪い生き方なのかということを決めることではなく、そこで前提となっているものをもう一度問い直すことであるように思われる。『ぼくらの』に出てくる子供たちのような状況に置かれる人間が(つまり、厳しい倫理的な問いを突きつけられるような人間が)、現実には、ほとんどいなくても、そうした問いを提起する必要があると、作者は考えているのだろう。この直観の先に、僕は、現代的な問題が見出せるのではないかと思っているのである。


 さて、個人の生の充実に生の価値を見出せないとすれば、いったいどこに、生きる価値を見出せばいいのだろうか? ここで、すぐに、アニメ版のように、家族的関係の重視というふうに話が進んでいかないのが、マンガ版『ぼくらの』の面白いところである。マンガ版は、それでも、なおかつ、問題を、個人的な水準で見据えるように読者を促しているところがあるのだ。


 ワクとコダマの物語に続く矢村大一(ダイチ)と半井摩子(ナカマ)の物語は、アニメ版のように、家族的関係を重視するエピソードである。確かに、この方向性は、個人的な生以上の水準を問題にしている。しかしながら、この二つの物語は、闘っている相手が自分たちと同じ人間であるということを知らない限りにおいて、成立する物語であると言える。この地点まで問いが進むのは、阿野万記(マキ)と切江洋介(キリエ)の物語においてなのだが、それは、後々、問題にすることにして、次回は、家族的関係がなぜ競争的関係の解決になるのかということを、もう少しじっくりと、考えてみることにしたい。