『耳をすませば』について(5)



 前回は、アニメの『耳をすませば』とマンガの『耳をすませば』とを比較することによって、雫の創作活動がどのような意味を持っているのか、ということを問題にした。アニメにおいて、雫の「書く」という行為には、試しという側面が非常に強いものであった。それは、聖司がバイオリン職人を目指すのと同じ水準に位置づけられている。別段、雫は、「物語作家になりたい」とか、そういう具体的な話はまったくしていない。むしろ、そういうことが言える可能性すらあるのかどうか、ということを自分自身で試しているわけである。


 これに対して、マンガのほうの雫も聖司も、その創作活動は、自分の将来というものとほとんど関係ないものである。マンガのほうの聖司は、バイオリン作りをしているのではなく、絵を描いている。マンガのほうでは、聖司の兄の航司という人物が出てくるのであるが、この兄のほうは、写真を撮るという創作活動をしている。マンガにおいて、これらの創作活動は、ファンタジーというものと密接に関係づけられている。つまり、それらの活動は、現実世界を越えた別の空間、別の領域、別の世界を出現させるためのひとつの試みなのである。


 さて、今回は、この別の領域としてのファンタジーというものについて、その考えをもっと深めていきたいと思う。こうした問題設定は、僕が以前このブログで問題にしていたセカイ系についての問題設定と密接に関わるものである。


 セカイ系においても、別の空間、別の領域、別の世界というのは重要な要素であるが、しかし、もっと正確に言えば、そこで重要なのは、別の空間というよりも、別の時間である。別の空間という言い方をすると、現実世界と平行的に存在する別の世界という感じがするが、セカイ系作品においてむしろ重要なのは、横軸ではなく縦軸、この世界の別の可能性として現われる(この世界を複数化する)別の時間である。


 複数の時間軸というものを扱ったセカイ系作品は非常にたくさん存在する。アニメに関してだけ名前を上げれば、『ラーゼフォン』、『ファンタジックチルドレン』、『ほしのこえ』、『雲のむこう、約束の場所』、『ノエイン もうひとりの君へ』といった作品がそうである。


 例えば、『ラーゼフォン』が描いていたのは、流れる時間の速さが異なるという形で示される二つの時間軸である。『ラーゼフォン』の世界においては、東京で流れる時間とその外で流れる時間との間に大きな差異があった。つまり、浦島太郎のような状態がそこにはあったわけである。


 竜宮城での数日が現実世界での数十年・数百年だったというこの経験は、われわれが日常生活でする経験と何か関係があるのだろうか? この点に関して、80年代に作られたいくつかのアニメ作品を参照することができるだろう。


 『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』、『トップをねらえ!』、『メガゾーン23』といった作品に共通して見出すことができるのは、いわゆる「ウラシマ効果」の問題である。『トップをねらえ!』が最も顕著な作品だが、光の速度で進むと時間が遅く流れ、元の時間のスピードで暮らしている人たちとの間に大きな時間の開きが出てくる、という問題である。このとき、心理上、最も重大な問題が起こってくるとすれば、それは、会いたい人に会えないという経験だろう。


 浦島太郎の物語で、最もショッキングなシーンは、太郎のことを知っている人が誰もいないことが分かったときのシーンだろう。『トップをねらえ!』において、この「会えない」という経験は、様々な形で、何度も繰り返して描かれる。第一に、それは、主人公のノリコとその父との関係であり、第二に、それは、オオタコーチとアマノカズミ(お姉様)との関係であり、第三に、それは、ノリコたちと人類全体との関係である。


 物語において、ひとつの基調を作り出しているのは、ノリコとその友人キミコとの関係である。ノリコがウラシマ効果によってほとんど年を取っていないのに対して、キミコのほうは、通常の時間を生きているために、普通に年を取っている。ここに、(ノリコの時間とキミコの時間という)二つの時間の極があるわけである。


 『トップ』の第二話で描かれるのは、死別した父に再会できるかも知れないというノリコの期待である。ノリコの父は、宇宙戦艦の艦長だったが、宇宙怪獣との闘いに敗れて、戦死してしまった。その父が乗っていた戦艦「るくしおん」号をノリコたちは偶然宇宙で発見する。「るくしおん」号は、光速で移動していたために、その時間の流れは、地球の時間よりも、遅くなっている。このために、「もしかしたら、まだ父は、この戦艦の中にいるかも知れない」とノリコは思い、オオタコーチの制止も聞かずに、彼女は戦艦に飛び移るのである。


 ここで描かれていること(また、そこでノリコが経験しているであろうこと)は、過去の時間に接近すること、過去の時間が反復することであるだろう。過去に接近すると言っても、過去の記憶を思い出すという単純な話ではなく、過去に経験したことをまた再び体験するのである。


 この第二話で描かれたノリコの思いとは、もう永久に失ってしまったと思っていたものをもう一度取り戻せるかも知れない、というものだったろう。死んだ人間と再会できるかも知れない、という思いである。ここでアクセントが置かれるのは、再会という言葉である。


 再会という要素は、『耳をすませば』においても見出すことができる。それは、猫の人形バロンの目を雫が覗きこんだときに、彼女が言う台詞である。つまり、そこで雫は、バロンのことをずっと前から知っていたような気がする、と言うのである。この台詞は、セカイ系作品に頻繁に見出すことができる再会の主題と密接に関係していないだろうか? 『ラーゼフォン』や『ファンタジックチルドレン』で描かれていたような、以前に会ったことを忘れていた二人が、過去の記憶を想起することによって再会するという一連のシーンがそれである。


 『ノエイン』でもそのようなことが描かれていたが、誰かと会ったことを覚えている/覚えていないというのは重要な問題である。『ノエイン』では、主人公のハルカが久し振りに友人に会ったのに、その友人のほうはハルカのことをまったく覚えていなかった、ということが描かれていた。このとき、セカイ系的な問題構成からすれば、セカイ系的な経験をしているのは、ハルカのほうではなく、むしろ、この友人のほうである。つまり、この友人は、『ラーゼフォン』で言うところの神名綾人と同じ状態にあるわけだ。綾人は、昔の恋人である遙と出会っても、それを再会というふうには認識せずに、初めて会ったというふうに経験するのである。そして、これが、初めて会ったのではなく、再会だったということになるのは、ずっと後に記憶を想起することによって、事後的にそうなるのである。


 『トップ』に話を戻せば、第二話で描かれたような「再会できるかも知れない」という期待とは対照的なのが、第五話や第六話で描かれた「もう再会できないかも知れない」という不安である。「もう再会できないかも知れない」という不安に見出すことができる時間とはどのようなものだろうか? それは、フランス語の文法にあるような「前未来」的な時間(英語で言う「未来完了」の時間)に近いものかも知れない。僕の持っているフランス語の文法の本には、こんな説明が書いてある。

複合過去が「現在」を基準とした「完了」をあらわすのに対して、「前未来」は「未来」のある時点を基準にして、ある行為やできごとが完了していることを示す時称(未来完了)です。ちょうど大過去が過去について果たす役割を、前未来は未来について果たすものです。
島岡茂『フランス文法の入門』、白水社、1989年、136頁。

 そして、そのあとに例文として載っているのが、「Au moment ou tu arriveras, je serai sorti. きみがくるころには、私は出かけています」という文である。このとき、「くる」という動詞に未来形が使われていて、「出かけている」という動詞が前未来形になっているわけである。


 さて、前未来という時間が興味深いのは、それが、現在と未来との間という奇妙な隙間に位置するからである。それは単純な未来とは異なる。未来は「これこれこうなるだろう」ということが問題なのではなく、未来の時点ですでに何かが終わっている(完了している)ということがそこで表現されていることなのである。


 『トップ』の第五話におけるアマノカズミの不安を前未来で表わせば、「私が地球に戻ってきたときには、もうコウイチロウさんは死んでいるだろう」というものだろう。加えて、第六話の最後のほうで、ノリコが言う「ごめん、キミコ、もう会えない」という台詞に表われているものは、「私が地球に戻ったときには、キミコを始めとして、地球の人類はすべて滅んでいるかも知れない」という不安だろう。


 このとき、ノリコもカズミも、ある種の未来に接近しているわけだが、それが単純な未来と異なるわけである。この未来への接近が、「失ってしまった」、「失っている」、「失うことになるだろう」という言い方で表わされるような過去・現在・未来のどの時点にも該当しないのは、「失う」という経験を、彼女たちが、ウラシマ効果によって、飛び越してしまうからである。あるいは、そこに二つの時間があるからだ、と言ってもいいだろう。つまり、再会できないということは、同じ時間を過ごすことができないということなのである。


 ここにこそ、記憶/忘却の問題と時間の問題とが交差する地点があるだろう。つまり、忘却は時間のずれを引き起こすということである。この点が、まさに、『メガゾーン23』で描かれていたことであるだろう。1980年代の東京という時代と場所とは、この作品においては、文字通り、宙に浮いたものになっている。そのような時間と場所の孤立化が可能になるのは、そこに巨大な忘却が存在するからである。「もし人類全体が記憶喪失に陥ったとしたら?」という仮定世界を描いているのが、『メガゾーン23』という作品なのである。


 こうした記憶と時間との関係についてのサブカル的な表象とは、真実を告げられることによって、見る見る年を取っていき、最後には白骨化してしまう人物というものではないだろうか? ここに見出されるのも二つの時間である。本当の時間の流れにおいてはその人物はもう死んでいるにも関わらず、そのことを忘れているために、つまり、別の時間を生きているために、その人物はまだ生きていられる。


 こんなふうに考えていくのであれば、例えば、『ラーゼフォン』における綾人と遙との関係を次のように整理することができるだろう。遙にとっての問題とは、過去との対面である。自分よりも12歳も若い綾人の姿は、必然的に、過去の状況に身を置くことである。それは、つまるところ、過去の記憶を想起すること(過去の状況を反復すること)である。これに対して、綾人にとっての問題とは、前未来との対面である。綾人が東京ジュピターから外に出て、遙に出会ったとき、このとき彼は未来にやってきたわけだが、そのとき失われたものは、美嶋玲香という亡霊のような存在として現れる。紫東遙と美嶋玲香という二人の人物ヘの分離が生じたのは、綾人が忘却状態にあるからであり、それゆえ、記憶を想起することによって、遙と玲香が同一人物であることが再発見されることとなるのである。


 さて、『耳をすませば』からだいぶ離れてしまったが、しかし、こうした話は『耳をすませば』と無関係なものではない。むしろ、僕の意図は、こうした一連のセカイ系的な問題設定から『耳をすませば』という作品を読解していくことにある。そうすることによって、新たな視点が獲得できると思うからだ。


 次回は、再会という観点から『耳をすませば』を見ていくことにしたい。