アニメーションの死――特殊言語としてのアニメについて

 現在放送中のアニメ『ギャラクシーエンジェる〜ん』を見て思ったことを少し書いてみたい。


 アニメ『ギャラクシーエンジェル』シリーズの特徴的なところは、世界観とキャラクターとの間にある大きなズレにあると言えるだろう。もっと言えば、『ギャラクシーエンジェル』においては、特定の世界など存在しない。キャラクターが存在していれば、世界はどのようなものであってもいいし、その世界の中でキャラクターがどのようなポジションを取っていてもいい。僕は、この作品のゲームをしたことはないが、TVCMなどを見る限り、アニメと雰囲気がかなり異なるのではないかと思われる。そして、このようなゲームとのズレこそ、アニメ作品が位置している場所のように思われるのだ。


 『ギャラクシーエンジェル』第4期(『ギャラクシーエンジェルX』)の最終回に、エンジェル隊のメンバーが、実は、本当のエンジェル隊のメンバーに成り代わってテレビ収録していた、という話があったが、このエピソードほど、この作品の内的構造を指し示しているものはないだろう。つまり、キャラクターの同一性は、基本的に、作品世界とは別のところに存在していて、ある作品におけるキャラクターの振る舞いと別の作品における同じキャラクターの振る舞いとの間に何らかの矛盾が存在していても、問題はほとんどないと言えるのである。


 ギャグマンガやギャグアニメといった作品には、間違いなく、このような自由さが存在している。ここでの自由さとは、同一性に関わる自由さである。有限性に関わる自由さと言ってもいいだろう。キャラクターは、特定の時間と場所に拘束されないし、究極的には、そのキャラクターを特徴づけていたいくつかの特徴にも拘束されない。そこにおいては、中心というものが、一見すると不在のように思えるのである。


 こうした点から考えると、『撲殺天使ドクロちゃん』の設定は非常に興味深いものだと言える。つまり、主人公が撲殺されても、次の瞬間にはすぐに生き返らせることができるという設定である。ここにある考えとは次のようなものだろう。すなわち、何かを復元することが可能であるならば、それ以前になした行為というものをなかったことにすることができる、と。『ドクロちゃん』における撲殺行為は、物語にとってはひとつの行き過ぎ、過剰な行為である。主人公の死という出来事は、他の作品であれば、非常に重大な出来事だろう。しかし、『ドクロちゃん』においては、そのような行き過ぎた行為も、後に復元することができるという条件においてのみ、何度でも繰り返すことが可能な行為となっているのである。人間の生は有限であり、死は一度しか起こり得ないが、しかし、復元というプロセスの導入により、死が何度も起こりえることとなっているのである。


 ギャグマンガやギャグアニメは、それゆえ、このような復元装置をどこかに内在させていると考えることができる。『トムとジェリー』が典型的であるが、そこにおいては深刻な出来事はまったくと言っていいほど起こらない。毎回、猫のトムは、押しつぶされたり切り刻まれたりするが、そうしたことは、深刻な事態とは言えないのである。トムが死ぬことは決してないし、復元不可能な事態に陥ることも決してないのである。


 ここで問題になっていることは、以前少し問題にしたことがある不可逆性に関する問題である。これは、ギャグアニメに限ったことではないが、非常に多くの作品が、この不可逆性を回避するような形で作品を作っていると言える。アニメやマンガという領域においては、決定的な出来事はあたかも起こらないかのようである。しかし、だからこそ、逆説的なことに、決定的な出来事は、アニメやマンガの世界の外で、われわれの現実世界で起こっていると言うことはできる。それは、例えば、声優の死という出来事である。


 アニメにおいて、声優の死ほど決定的な出来事はないのではないか? 『ルパン三世』における山田康雄の死が典型的であるが、ここには決定的な断絶線が、ひとつの不可逆性が見出される。山田康雄の代わりに栗田貫一が起用されたということが事態の深刻さを物語っているように思える。アニメにおける声優の交代という出来事は珍しいものではないが、『ルパン三世』においては、事情が異なったと言える。つまり、山田康雄とルパンはほとんど同一視されていたのであり、栗田貫一が真似ていたのは、山田康雄の声というよりも、ルパンの声だったわけである。それゆえ、栗田貫一の起用は、山田康雄の死(これはルパンの死以外の何ものでもない)という決定的な出来事をなかったことにしようとする試みだったと言える。


 なぜ、ルパンをこれほどまでに生き延びさせたいのか? むしろ、このことのほうが不思議なことだと言える。『ルパン三世』は、『サザエさん』や『ドラえもん』とは、少し質の異なる作品ではないだろうか? しかし、重要なことは、おそらく、作品の内容ではなく、変わらない何かがあるという事実なのだろう。たとえ、『サザエさん』を誰も見なくなったとしても、『サザエさん』が毎週放送されていて、そこにおいて決定的な出来事は何も起きていないということが知られていれば何の問題もないのだろう。われわれは、おそらく、『サザエさん』の内容にではなく、『サザエさん』が放送されているということに安心感を覚えるのだろう。


 すべて世はこともなし。こうしたことが強調されているのであれば、僕は、まったく反対のことを考えてみたくなる。つまり、われわれは、すでに、戻ることのできない一線を越えてしまったのではないか、ということである。例えば、アニメに話を限定してみれば、現在のTVアニメが、旧来のアニメ(とりわけ70年代のアニメ)とはその質を大きく異にしていることは明らかであるだろう。アニメというものが日本人の共通体験として機能することはもはやありえない。辛うじて、宮崎駿スタジオジブリがそれを支えているというのが現状ではないだろうか? そんなふうに考えるのであれば、大文字のアニメはすでに死んでいるということが言えそうなのだが、おそらく、多くの人はそれを認めたがらないだろう。そうした否認の役割を果たしているTVアニメが、まさに、『サザエさん』や『ルパン三世』なのではないのか?


 おそらく、『ギャラクシーエンジェる〜ん』などという作品を真面目に見ている人などほとんどいないことだろう。多くの人がこの作品を馬鹿にしているはずである(というよりも、そんなアニメが放送されていることすら知らないだろう)。つまり、この作品を見るような人は一部の人間、萌えアニメ好きのオタクにすぎない、というふうに。しかし、それでは、このアニメは偽のアニメなのだろうか? 本物のアニメがあるとすれば、それはどこにあるのだろうか? ジブリの作るアニメが本物なのだろうか? 僕は、やはり、『ギャラクシーエンジェる〜ん』こそがアニメなのだ、という認識を否定すべきではないと思っている。別段、この作品を特別扱いしたいわけではなく、現在TVで放送されている多くのアニメもそうだと言いたいのである。


 今年の春、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメが少しばかりブームとなり、ネットで「『ハルヒ』はポストエヴァか否か」ということが議論されていたが、こうしたことが、すでに、事態の深刻さを物語っていないだろうか? 『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品が何の一般性も持たない作品であることは明白ではないだろうか? 『エヴァ』ブームのときも、『ヤマト』ブームのときも、それらの作品に何の関心も示さなかった人はたくさんいたと思うが、『エヴァ』や『ヤマト』が、当時の時代状況を代表する記号として(それなりに)機能したことは間違いないだろう。だが、『ハルヒ』が同様の記号として機能しているとはとても思えない(もちろん、『ハルヒ』から時代状況を読み取ることは可能だろうが、そうした試みはどんな作品からでもできることだろう)。ブームの規模からすれば、『ハルヒ』などは、ポストエヴァの名にはまったく値しないのではないか?


 むしろ、ポストエヴァなど存在しない、と考えたほうが自然ではないだろうか? 来年、『エヴァンゲリオン』の新作劇場作品が公開されるようだが、僕は、この新作に、もはや、何の期待も持つことができない。もちろん、アニメーションとして、非常にクオリティの高い作品を見ることができるという期待は十分に持つことができるだろう。しかし、この作品を、新しい何かの始まりとして期待することなど、ほとんど不可能ではないだろうか? 僕がこの作品に期待することは、「ポストエヴァなど存在しない」ということを、何らかの形で、この作品自体が示すことである。これは、つまり、大文字のアニメーションの死を宣告することであり、われわれがすでに新しい局面にいることを告げ知らせることである。


 『エヴァンゲリオン』が生み出した幻想を『エヴァンゲリオン』自身が否定する。それが、おそらく、ありうべき帰結なのだろう。アニメなどというものは、一般言語ではなく、特殊な言語であるということは、やはり、自覚すべきではないだろうか? アニメは、一部の人の間にしか流通させることのできない特殊な情報体である。このような現状認識から、まずは、出発すべきではないだろうか?


 最近、「日本文化としてのアニメやマンガ」という言い方をよく聞くが、果たして、そこで想定されているマンガやアニメとは、何なのだろうか? アニメが一般言語でない以上、そこで語られているアニメとは、特定のアニメであって、すべてのアニメではない。語りの枠組から排除されるアニメがありうるということは、自覚すべきであろう。私が想像するアニメとあなたが想像するアニメとでは異なるということ。いったい、どこに、どんなふうにして、それらを分ける境界線が引かれているのか? そこのところを今後はよく見ていく必要があるだろう。