なぜ私が選ばれたのか?――『金色のコルダ』と世界の外部から到来した謎

 アニメ『金色のコルダ〜primo passo〜』の物語形式は、非常に伝統的なものだと言える。この作品は、コーエーのゲームをアニメ化したものらしいが、コーエーの女性向けゲームは、他にも、『遙かなる時空の中で』や『アンジェリーク』がアニメ化されている。これらの作品は、すべて、女性ひとりに男性多数という逆ハーレム状態の作品だと言えるが、それはともかくとして、これらの作品で共通して描かれている問いとは、端的に、「なぜ自分が選ばれたのか?」というものだろう。他の誰かであってもよかったはずなのに、なぜ自分が選ばれたのか? 自分にだけあって、他人にはないものとは、いったい何なのか? そうした問いが、ここでは問われていることだろう。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」。この問題系は、現代的であると同時に、非常に伝統的なものだと思われるのである。


 『金色のコルダ』のアニメを見ていて、まず疑問に思ったことは、なぜ、音楽科と普通科という二つの学科があるのか、ということである。主人公が音楽科に在籍していて、その主人公がコンクールの代表に選ばれる、というのではダメなのだろうか?


 『金色のコルダ』の物語形式に非常によく似ているのは、『エースをねらえ!』である。あるいは、『ヒカルの碁』のほうがもっとよく似ているかも知れないが、これらの作品の共通点は、素人が突然代表に選ばれるというものである。この突然の介入、突然の断絶が、主人公に「なぜ自分が選ばれたのか?」という問いを抱かせるのである(こうした突然の介入は、『遙かなる時空の中で』や『十二国記』のように、突然異世界へと流されるという物語展開にも見出せるだろう)。それまであった主人公の日常世界に亀裂が入り、世界がまったく別のものへと変わってしまう。この介入は、言ってみれば、世界の外部から訪れたひとつの謎めいたメッゼージである。主人公は、その謎を解き明かすことができないために、困惑してしまうのである。


 この突然の介入を、外部的な情報を元にして、説明するのは容易いことだろう。つまり、『金色のコルダ』であれば、この作品はもともとがゲーム作品であり、クラシック音楽についての知識や技術がない普通の人たちをゲームに引きこむために、非常に強引な物語展開が要請されたのである、と。こうした説明はおそらく正しいだろうが、しかし、アニメ作品をひとつの独立した作品と見なすのであれば、その作品にとってメタなレベルにある情報を持ってきて説明をつけるよりも、その作品内の情報から説明づけることこそが絶対に必要だと言えるだろう。つまり、その作品の内的必然性を考える必要がある、ということである。


 さて、話を元に戻すと、この種の物語作品においては、往々にして、主人公が当然選ばれるべき人物だったということが、最終的に、自明なものとなるわけだが、この自明さはやはり、事後的に確定したものと見るべきだろう。つまり、主人公は、そうなるべき者として促されている理想的な人物になろうと努めた結果、当然選ばれるべき人物になった、と考えたほうがいいように思われる。ここで問題となっているのは、ひとつのギャップである。主人公が自分で自分を見る視点と他者が自分を見る視点との間にギャップが存在しているのだ。


 「私は自分のことを低く見ているが、あなたは私のことを高く評価している」。これこそ、伝統的な少女マンガの係争点ではないだろうか? 例えば、学園ものにおける、憧れの先輩の持つ役割とは、そんなふうに主人公のことを正しく評価するまなざしを持つ者だと言える。彼は、往々にして、周囲の人間とは違った形で、主人公のことをまなざす。周囲の人間が主人公のことを不美人と見ているのであれば(主人公自身もそう思っているわけだが)、その先輩はその主人公のことを美人と見るのである。


 このギャップが端的に表現されている少女マンガ的アイテムというのがメガネであるだろう。「メガネを外すと実は美人」という月並みな設定の持つ本来の意味とは、美人の子がメガネを掛けているために不美人に見えるということではなく、まさに、上記したような視点のギャップを客観的に示すアイテムがメガネだということである。つまり、問題の根底にあるのは、主人公が自分自身のことを見るコンプレックスに満ちたまなざしであり、そのまなざしが、善意に満ち溢れた男の子の出現によって、別のまなざしへと置き代わるのである。


 例えば、『エースをねらえ!』における三つのまなざしのことを考えてみよう。ひとつ目は、宗方コーチのまなざし、それは、選ぶ者のまなざしである。『金色のコルダ』において、それは、主人公の日野香穂子をコンクールの代表に選んだ者のまなざしである。そして、二つ目は、嫉妬のまなざし、『エース』では、とりわけ、音羽京子という人物によって体現されているまなざし、代表に選ばれなかった者たちのまなざしである。そして、最後の三つ目は、お蝶夫人のまなざし、これは、主人公が選ばれた者であることを承認するまなざしだと言える。この役割にある人物は、嫉妬に駆り立てられている周囲の人間たちを諌めると同時に、主人公の不安定な立場を問いただしたりもする(『金色のコルダ』のアニメにおいては、とりわけ、月森蓮という登場人物によってその役割が担われている)。


 ここで問題になっていることは、知識の問題だとも言える。嫉妬する人間は何も見ていない者、お蝶夫人のような人物はよく見てよく知っている者、そして、さらに、選んだ者のまなざしは、絶対的な真理を握っている者、すべてを知っている者のまなざしなのである。それゆえ、お蝶夫人と宗方コーチとの間にあるギャップというのが、『エースをねらえ!』においては、ひとつの問題になっていると言えるだろう。お蝶夫人にとってひとつの壁になっているものとは、自分自身の中にある嫉妬のまなざしである。岡ひろみは、言ってみれば、例外的な人間であり、この例外という要素が、お蝶夫人の同一性を動揺させるのである。


 この点は、『金色のコルダ』では、月森蓮のまなざしを相対化する人物として、土浦梁太郎という人物が登場する。ここにおいて、音楽科と普通科との差異が意味を持ってくることになる。つまり、音楽科の月森はある種の偏見を持っているのであり、その偏見を相対化するために、土浦が登場するわけである。


 つまるところ、ここで問題になっていることは、価値観の転覆であり、価値観の変更だと言える。日野香穂子を始めとする一連の主人公たちの謎、「なぜ私が選ばれたのか?」という謎は、あらゆる登場人物たちにとっても謎だと言えるのである。ここで生じる亀裂は二段階ある。第一段階での亀裂は、選ばれた者と選ばれなかった者との間の亀裂である。さらに、第二段階目に明らかになる亀裂が、選ばれた者同士の間での亀裂である。日野香穂子の内には謎があり、この謎が他の登場人物たちを困惑させるのである。


 『ヒカルの碁』で提起されている問題も、このような謎、塔矢アキラが進藤光の内に見出した謎だと言えるだろう。この謎は、「なぜ自分が選ばれたのか?」という点では、進藤光にとっても藤原佐為にとっても謎だったと言える。そして、この不可解な謎を理解できるものにしようとすることこそが、物語を先に進める原動力だったと言えないだろうか? そして、おそらく、それは、『金色のコルダ』においても同じことだろう。この不可解な謎をバネにすることによって、世界に対する新しい解釈が開かれることになるわけである。