固有性とは別の何かを求めて――『GANTZ』20巻を読んで

 『GANTZ』20巻を読んだ。ちょっと前に、21巻を読んだので、順番が逆になってしまったが。


 20巻と21巻の間には、連載の休止期間があるわけだが、この休止期間から振り返って考えてみると、この20巻は、奥浩哉の焦りというか倦怠というか、とにかく話を先に進ませたい(あるいは、もっと言えば、早く話を終わらせたい)という、そうした欲望を見出すことができる。


 今まで築いてきたものを御破算にして、新しく一から始めたいという欲望。そうした欲望が、あの『め〜てるの気持ち』という作品をも(副産物として)生み出したのだろう。


 果たして、奥浩哉に、作品の今後の見通しがはっきりとあるのかどうか分からないが、ひとつの大きな障害となっていると想像されるものが、作品で描きたいことと作品を描くこととの間のギャップである。


 20巻を読んで想像されるのは、ここで、非常に多くの描きたいことが犠牲にされているのだろう、ということである。その作品で描きたいことをすべて描こうとすると、時間がかかるし、逆説的に聞こえるかも知れないが、そんなふうにすべてを描くことが本当にやりたいことではない。言い換えれば、描きたいことをすべて描くためには、その前段階として描かなければならないところが非常にたくさん出てくるのであり、その前段階を描くことに疲れ切ってしまうのではないかと思うのである。


 僕は、冨樫義博がマンガを描けなくなる理由もそういうところにあるのではないかと思っている。もっと言えば、マンガを描いて作品にすることそれ自体を疑問視しているのではないか、というふうにも思えてくる。もちろん、何かを形にすることに、いろいろな意味づけや価値づけを施すことはできるだろうが、場当たり的ではない動機づけ、さらに言えば、欲望というものが非常に希薄なのではないか、という気がするのである。


 この問題は、涼宮ハルヒの例の悩み、小さな物語の並列化の問題と絡むかも知れない。つまり、特権性を奪われた行為(さらには存在)が持つ意味や価値といった問題である。私がそれをやらなくても誰かがそれをやるだろうし、すでにやられているかも知れない。そうした平凡で月並みな行為を、なぜ、あえて、ここで私がやらなければならないのだろうか?


 もちろん、そうした意味では、冨樫義博奥浩哉には、間違いなく固有性があるわけだが、しかし、非常に多様なレベルで、「あれはすでに誰かがやっているかも知れない」という疑問を差し挟むことはできるだろう。


 無知であればこうしたことに悩むこともないわけだが、無知であることが最善であるとはとても思えない。おそらく、固有性とは別の何かに行為の正当性を見出すべきなのだろうが、しかしながら、個人の衝動(あるいは欲望)とでも言うべきものにそうした正当性を見出そうとすると、再び固有性の問題(他の誰でもない私だけが持っている衝動)に戻ってしまうことだろう。


 ここでの問題を、現在書いている『ぼくらの』論と関わらせれば、競争的関係における生とは、他人との差異のうちで決定される自己の存在の価値のことであり、その世界では、固有性のある人間が勝ち、固有性のない人間が負けるということである。それに対して、家族的関係における生とは、並列化された小さな物語の凡庸さを認め、それがありきたりのつまらない行為であったとしても(つまり、固有性のない行為であったとしても)、家族や友達関係など、小さな世界においては意味のある行為としてそうした平凡さや普通さを受け入れる、ということである。


 僕が『ぼくらの』論でやりたいことは、そうした典型的な二つの立場のどちらでもない立場というものを模索するということである。本論で述べたことであるが、競争的関係と家族的関係とを対立させることは間違っている。おそらく、これら二つの関係は対立しているのではなく、相互に支え合っている。そうであるのならば、そうした複合的な関係と真に対立するような関係を提出することができるのではないか、と思っているわけである。この点については、本論に戻って、じっくりと考えてみることにしたい。