代替不可能なものの仮面を被る代替可能なもの

 最近のアニメ作品やその他のサブカルチャー作品を見ていて疑問に思うことがある。それは、ある種の共同体主義的な価値観が過度に肯定されている点である。ある種の共同体主義的な価値観とは、古き良き日本の価値観とされているもの、ある地域の住民同士による助け合いの精神のことである(最近のアニメ作品では、例えば、『大江戸ロケット』の名前を上げることができるだろう)。


競争的関係と家族的関係
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20070111#1168532200


 この点に関して、僕は、以前、上記のエントリで、競争的な人間関係に対立する家族的な人間関係として、そのような価値観を位置づけた。そして、それから、競争的関係の行き詰まりを打開する道を探るために、家族的関係を描いている作品をいくつか検討していったわけだが、こうした作品から、十分にその可能性を汲み出すことはできなかった。


 そこで、今回から、少し方向性を変えて、家族的関係を描いているのとは別種の作品を主に取り上げていくことにしたい。


 ある作品を取り上げて問題にする場合、その作品を肯定するか否定するかということが重要ではない。ある作品を批判の対象にする場合があったとしても、そのことは、その作品を否定するのと同義ではない。というのは、ある作品を批判することが、むしろ、その作品の眠れる可能性を引き出すことに繋がる場合があるからである。こうした点から言って重要なのは、今日の家族的関係を描いているような作品のうちに、様々な問題点を見出すような新しい視点を導入することである。


 例えば、『電脳コイル』については何が言えるだろうか? この作品に見出すことができる懐かしい雰囲気に、もちろん、騙されてはいけない。一見すると共同体主義的な価値観を前面に押し出しているように見えるこの作品にいくつもの亀裂が走っているのを見て取ることは容易であるだろう。電脳メガネという小道具がもたらす効果とは、われわれの見ている世界が実際の世界とは異なっているかも知れないというその可能性の導入である。


 重要なのはこのズレである。『電脳コイル』という作品は、このようなズレを、一方では明らかにしつつ、他方では隠蔽する。問題となっていることを代替可能性という言葉で整理することができるだろう。共同体主義で問題となっているのは、代替不可能なものである。大黒市という街は、一見したところ、それ固有の歴史や文化を持った街に見えるが、そのような固有性も、すでに、デジタル化されデータ化され、いくらでも複製可能なものとして立ち現われてくることだろう。


 メガばあの存在に(おそらくイジートルンカの『電子頭脳おばあさん』に始まる)コンピューターおばあちゃんのイメージの流れを見て取ることは容易である。そこで問題となっていることは、代替不可能なものと代替可能なものとの短絡である。おばあさんの経営する駄菓子屋というイメージのうちには、その街の固有性というものが密接に関わっているわけだが、そこでの街がサイバースペース(電脳空間)でしかないとすれば、おばあさんの姿をとって現われる固有性の姿も、偽装されたものにすぎないだろう(こうしたイメージとパラレルな現象は、古くからある個人商店が、経営者をそのままにして、コンビニなどのチェーン店へと変貌する、そこでの組み替え作業である)。


 代替可能なものが代替不可能なものの仮面を被ることは、今日においては、大手企業の基本的なイメージ戦略であると言えるだろう。代替可能な店の代替可能な店員が、地域住民に対して、商売上のサービス以上の振る舞いをするという、ありふれたTVCMのことを思い出してほしい(あるいは、お金で買えるもの/買えないものという、一見すると自らの無力さをさらけ出しているように見える振る舞いが、そのような区別の前提となっている自らの行為を覆い隠していることに注意してほしい)。こうしたことは、確かに、その店の店員が、そもそも、そこでの地域住民から構成されているという状況にあってはありえることであるが、同時に、そこでの人間関係が、基本的なレベルから、大きく組み替えられていることもまた確かなことであるだろう。


 この点で、『鉄コン筋クリート』で描かれていたようなテーマパークと下町との対立は、それほど本質的なものではないだろう。というのも、実際に、下町のテーマパークが存在するからであり、その点では、やはり、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』が、依然として、核心を突いた作品であると言える。つまるところ、われわれの持っている感性、ある種のノスタルジックなものに惹かれるという感性、共同体主義的なものに惹かれるという感性も、決して自然なものではなく、人工的に構築されたヴァーチャルなものであるという認識を常に保持しておく必要があるだろう。


 最近、ネットを賑わした話題として聖地巡礼というものがあるが、そこにおいて重要なのも、リアリティというよりはヴァーチャル・リアリティ、つまり、その虚構性や架空性であるだろう。『らき☆すた』、『苺ましまろ』、『かみちゅ!』といった作品が、実際にある土地をモデルにして作品を作っているからと言って、登場人物たちが実際にそこにいるわけではない、などという当たり前のことを言いたいわけではない。重要なのは、ある街が作品の中で複写されるときに、逆に、もともとの街そのものが、そうした複写作業によって、事後的に、ヴァーチャルな形でリアリティをもたらされる、ということである。リアルな街があって、フィクショナルな作品があるわけではなく、街そのものもフィクショナルなものにすぎないのである(もちろん、そこで構築されていたフィクションとは、それなりの歴史を持つフィクションだと言えるだろうが)。


 こうした点で、僕が少々こだわってきた日常生活、『らき☆すた』に描き出されるような日常生活というものも、非常に怪しいものだと思う必要があるだろう。アニメを見ながら「あるある」と頷くその瞬間に、どのようなフィクションが生み出されているのかということに、ちょっと思いをはせてみるべきだろう。つまり、この瞬間に、われわれは、あるフィクションにリアリティを認め、つまるところは、小さな物語を作るのに参加しているわけである。そこでのフィクションとは、言ってみれば、共通感覚というフィクションである。


 近年のアニメでくどいほど描かれる秋葉原の風景も同様の効果を持っていると言えるだろう。アニメで秋葉原の風景が当たり前のように描き出されて、視聴者がもはやその風景に飽き飽きした瞬間にこそ、そうした風景がひとつのリアリティを持ってしまった瞬間だと言える。つまり、オタクの街=秋葉原という公式はフィクション以外の何ものでもないわけだが、そうした虚構性が忘却される瞬間こそが、何かが無前提にリアルなものとなるという最も危険な瞬間だと言えるのである。


 話を元に戻すと、この前の参院選の結果を見ても、競争的関係と家族的関係との対立は、やはり、偽りの対立であるように思える。というのも、問題となっているのは、常に、両者の妥協であり、どの点で釣り合いを取るのか、ということであるように思えるからだ(誰しもが安寧な生活を請け合い、誰しもが少しばかりの痛みを要求する)。しかしながら、競争的関係の持つリアリティ、バトルロワイアル状況が持つリアリティというものは、依然として、存在することだろう。こうした状況に対して、家族的関係や共同体主義というものは、ただそれだけでは、あまり有効性を持たないことだろう(そのことの理由は、上記したように、家族的関係や共同体主義というものが、一種の見せかけとして機能するからである)。それゆえ、むしろ、バトルロワイアル状況に留まって、その中で、ある種の方向性や可能性を模索したほうがいいように思えるのである。


 ここで立ち現われてくるのが倫理の問題である。バトルロワイアル状況とは、言ってみれば、道徳的な前提を括弧に入れた状況だと言える。つまり、他人を殺すことは悪であるに決まっているが、しかし、他人を殺さないと自分が生きていけない。ここで問題になっていることは、何が善で何が悪かということではない。何が善で何が悪かを決める前提条件そのものについて考えることが問題となっているのである。


 この点に関しては、次回、今日の作品の中でも極めて倫理的な作品だと言える『ぼくらの』を取り上げることによって、もっと詳しく問題にしていくことにしたい。