神山健治とネットワークの思想

 神山健治関連のアニメをまだいくつか見ているのだが、神山は、ネットワークというものを描き出そうとしているアニメ作家ではないかという気がする。『攻殻SAC』で描かれるような情報ネットワーク(サイバースペース)だけが問題なのではない。ネットワークとは、極限的には、何かが何かと結びついているということであり、あらゆる事物は多様な経路によって繋がっているということである。一本の糸を辿っていくと、その糸が思わぬものと結びついていることが発見される。そういうネットワークの複雑さに対する驚きを神山健治は描き出そうとしているのではないか。
 『東のエデン』でも同種のことが問題になっているように思える。ノブレス携帯によって引き起こされる様々な出来事。そうした出来事は、それが魔法のように突然起こったように見えたとしても、何もないところから生み出されたわけではないだろう。無から何かが生み出されたわけではなく、そこには何らかの経路が、出来事が起こるために必要な潜在的な経路が存在するのだ。
 こうした潜在的な経路を可視化させることが神山の狙っていることであるように思える。何かが起こりうる可能性というものは、こうした潜在性に関わっている。何か新しいことが起こるとしても、それは、突然空から降ってくるのではなく、すでに常にある潜在的なネットワークから起こる。言い換えれば、自分が今立っている足元がまだ見ぬ未来に繋がっているというような、そういう思想が提出されているように思えるのだ。
 『精霊の守り人』では、近代的な都市のネットワークとは別のネットワークが描かれているだろうが、それをどういう名前で規定すればいいのだろうか。前近代的なネットワークというふうに言うのは簡単だが、この点については、もう少し考えてみたいところである。