新しい価値基準を創出するために――『コードギアス』についてのちょっとしたメモ

 『コードギアス』には、現代の日本社会(あるいは日本人)に対するちょっとした批判のようなものが見出せる。それは、言うなれば、政治に対する無関心さへの批判のようなものである。ブリタニア帝国によって占領され、「エリア11」と呼ばれる日本の姿というものは、第二次大戦後にアメリカに占領された日本の姿のことを、さらには、現在においてもアメリカの軍事基地が存在し、アメリカの要請に従って自衛隊を海外に派遣しなければならないといった、日本の「対米従属」の姿を想起させる。
 それでは、この作品は、イデオロギー的には、どのような立場に立とうとしているのか、というところを見極めるのはなかなか難しいところである。そもそも、帝国主義の植民地支配に対する民族独立というテーマはすぐれて20世紀的な問題設定だと言えるだろうし、そこに21世紀的な問題設定であるテロリズムが接合されているのには、若干の違和感を覚える。21世紀においても帝国主義が問題となるとすれば、それは、グローバリゼーションという名の帝国主義だろうし、そうした資本の運動に対する抵抗が21世紀型のテロリズムと言えるかも知れない。
 『ギアス』の物語の中で日本という国がどうなっていったのかというところだけを見ると、民族独立から一種の国連主義へ、というような流れを辿っていったと言えるが、しかし、この作品の主人公は、日本人ではなく、ブリタニア人のルルーシュだ、というところで、そのような分かりやすい物語展開がずらされているところがある。民族の統一を図るにしても、国際的な連合機関を創設するにあたっても、「ゼロ」という名の外部が必要になった、というところが、この作品の中心的な観点だと言える。
 しかしながら、この作品の『DEATH NOTE』的なところにもっと注目すれば、悪しきものと闘うという一種の正義感から出発したはずなのに、それがいつの間にか自分自身が悪の場所に就いてしまうことになるというそのプロセスに、現代的な困難を見出すことができるように思う。例えば、巨悪の根源のように見えたブリタニア皇帝のシャルルが、実は、ある種の弱さを持った人物、彼も彼なりの正義を貫こうとしていた人物だったということが判明するところなどは、極めて皮肉な事態と言えるが、こうした展開そのものはそれほど新しいものではない。
 『コードギアス』という作品から考えるべきなのは、極めて困難なものになった正義、単に悪を打倒するというのではない正義というものをどのように打ち出すことができるのか、ということである。例えば、グローバリゼーションに対する抵抗というものを、市場による富の再配分に対する抵抗というふうに考えることができるだろうが、しかしながら、最大多数の最大幸福という考え方、最も多くの人にとって良いことが最も良いことだという考え方に対抗しうるような絶対的な正義というものを果たして打ち立てることができるのだろうか?
 富を独り占めしている人物を「悪だ」と言って攻撃することは極めて容易である。しかし、そうではない仕方での正義というものがありうるとすれば、そして、それが最大多数の最大幸福という考え方に対立するものだとすれば、そのような正義とは、日常生活の幸福を脅かすという点で、表面的には悪と区別がつかなくなるだろう。
 おそらく、現代のわれわれにとって必要なことは、正義や悪といった道徳や倫理に関わる言葉のイメージを一新することである。旧来の物語が提示していたような道徳観のようなものを再構築することである。そうした点では、『DEATH NOTE』や『コードギアス』といった作品は過渡期の作品なのかも知れないが、悪のイメージの変化を通して、正義のイメージの変化というものも当然起こってくることだろう。
 同様に、個人に焦点を当てた物語の道徳観についても、おそらく何らかの変化が生じていることだろう。われわれ日本人の道徳観においては、平等という観念が根底にあると言えそうだが、こうした平等観にも何らかの変化がすでに生じているのかも知れない。それは、単に平等よりも自由のほうを重んじるという価値基準の移行ではない、何かまったく別種の価値基準というものが生み出されることになるかも知れないという可能性である。
 こうした新しい価値基準から何らかの作品を評価していくということが必要になってくるのかも知れないが、それは極めて困難な作業だろう。アニメで考える(アニメ「を」考えるではなく)などということがありうるとすれば、それは、われわれの現実とはまったく別種の運動なり法則なりに身を委ねることなのだろうが、これもまた極めて困難なことだろう。しかしながら、こうした特殊な思考法の可能性についても考えてみる必要がある。