データ化、デジタル化

 昨日に引き続いて、『うえきの法則』について、もう少し。

 『うえきの法則』を見ていて非常に気になるところがあった。それは「才」というものについてである。これは、言ってみれば、才能のようなものであって、例えば、「勉強の才」を持っていると勉強がよくできるし、「踊りの才」を持っているとダンスが上手く踊れるようになる。これらの才は、コンピューターのようなものにデータ化されていて、その人がいくつの才を持っているかが判明に分かるというシステムが作られている。

 一見すると、こんなふうに、人の能力が数値化されているのは、ゲームみたいで、現実の世界との間に距離があるように思えるのだが、しかし、リアルの世界でも似たようなものがあることに気がついた。それは、いわゆる、「資格」というものである。もちろん、資格は、その人がどれくらい能力があるのかを検査したのち、その人に与えられるレッテルのようなものだから、その資格を持っているから、この人はこれこれこういうことができる、と言うのは順序が逆である(この人は、これこれこういうことができるから、そのような資格を持っている、というのが正当な順序だろう)。だが、実際に、資格というものがどのように機能しているかと言えば、それは、『うえきの法則』と同じく、この人は、この資格を持っているから、これこれのことができる、というふうにひとつの判断基準として使われているのではないだろうか? つまり、そこには、一種のデジタル化、データ化とでも言うようなものがある、ということである。

 もちろん、資格は、ある特定の、限定された領域の中だけで機能するものである。つまり、人間の能力、さらには、その人間そのものを単純化して捉えなければならない領域がある、ということである。だが、このようなデジタル化、データ化は、様々な領域に広がっていて、われわれの思考までも規定しているのではないか、という懸念が僕には少しあるのだ。

 そんなふうに考えてみれば、『うえきの法則』のようなフィクションの世界も、あながち馬鹿にできないどころか、極めてリアリティのある世界ということになるだろう。そうであるならば、主人公の植木が自分の才を失うことになる行為をあえてするというのは、やはり、非常に勇気がある行為だと言わねばならない。言ってみれば、植木は、社会システムの外部を目指す人間ということである。その外部に正義が位置づけられるとすれば、この作品は、なかなか意義深い作品ということになるだろう。