終わる「私」の世界

 昨日、隕石が落ちるとかで、ネットでいろいろと話題になっていたが、こうした終末の雰囲気は、サブカルチャーの問題と密接に関わるところなので、少しコメントしてみたい。

 今回の騒動を語るための二つの観点がある。ひとつ目は、大きな物語と大状況という観点である。

 サブカルチャー作品で、地球に危機が訪れる話は数限りなくあるが、そこで何が危機的な状況にあるのかと言えば、それは、われわれの共通の土台だと言えるだろう。結果、そのことは、逆に言うのであれば、そうした危機を通して、改めて、「われわれ」という次元、自分もその中に含まれるような全体的なものが姿を現わすことになるのである。これは、祭りのような熱狂が起きるためのひとつの条件だと言えるだろう。

 しかし、今日の物語の傾向で言えば、そのような共感的な熱狂とは別種のもの、人類共通の危機とは別の危機を見出すこともできるだろう。それは、個人的な危機とでも言うべきものであり、それぞれの個人がそれぞれの日常生活で保持しているものの危機である。

 おそらく、現在の日本で、巨大な隕石が地球に落ちてくるという映画が作られるとすれば、共通の危機を前にした人類が協力してそれに対処するという物語が描かれるよりも、最後の一日を何人かの登場人物がそれぞれどのように送ることになるのかを丁寧に描く、というものになるだろう。つまり、現在の物語の傾向は、小状況における小さな物語だ、ということである。

 第二の観点は、「終わり」というものをどのように考えるのかという観点であり、あらゆるカタストロフは、それがどのようなものであろうとも、ひとつの終わりを示唆する、という観点である。

 1999年という年が何か終わりをもたらしたとすれば、それは、終わることの終わりだと言えるだろう。つまり、宮台真司が『終わりなき日常を生きろ』の中で言っているように、大きなレベルでの終わりというものはなく、日常生活はこれまでと同じように永遠に続くという、そういった意味でのカタストロフがそこで提示されたと考えられるのである。

 その点で言えば、今回の騒動は、やはり、われわれは、何らかの終わりを期待している、というふうに言えるだろう。つまり、そこには、間違いなく、不安だけでなく期待もあるのであり、現在の状況、現在のシステム、現在の立場と言ったものが大きく転換してほしい、という欲望が見出されるのである。これは、終末への期待というよりもむしろ、革命への期待だと言っていいだろう。そこで終わることが期待されている世界とは、これまでの世界という部分的な世界のことなのである。

 しかし、ここには、ひとつの逆説も見出される。それは、われわれの想像力においては、革命よりも終末のほうがリアリティがある、ということである。こうした傾向は、まさに、大状況と小状況との間の乖離から帰結するものであり、それこそ、まさに、セカイ系の物語が生み出されるための土壌になったものだろう。

 こんなふうに見てくると、今日の終末とは、「われわれ」の終末というよりも、「私」の終末だと言える。『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版第25話のサブタイトルが「終わる世界」だったわけだが、まさに、あそこで描かれていたように、非常に内省的になることと世界が終わることとの間に過度の親和性があるというのが今日という時代のように思える。つまり、そのことを逆に言えば、隕石が地球に落ちるまでもなく、世界が終わっている人たちがいる、ということである。そのような個人的な行き詰まりを打開するものが、まさに、大状況における危機、つまり、隕石だったのだろう。