他者の欲望との折り合いのつけ方

 最近、高野文子の『るきさん』をペラペラと読み返しているのだが、やはり、るきさんの生活には憧れるところがある。非常に豊かな生活を送っているという気がするのだ。
 これは、例えば、村上春樹の小説を読んでいても思うことなのだが、そこで、街の風景等、日常生活の非常に細かな描写がなされると、自分は、そんなふうに、じっくりと物を見たことはなかった、と思い知らされるのである。同じことが、高野文子のマンガにも言えて、この人はよく物を見ているなあと、そういうところに関心するのである。
 スローライフという言葉があるが、重要なのは、ファーストかスローか、というところにはないだろう。何というか、他者の欲望にいかにして抵抗して生きるか、というところにポイントがあるように思える。別に、他者の欲望に従ってもいいと思うのだが、随所随所で、自由に切り替えできることが必要だと思うのである。
 例えば、現在の日本のアニメの状況を考えてみれば、そこでの最大の問題とは、誰がいったいアニメを見たがっているのか、ということではないだろうか? おそらく、実際にアニメを見たがっている人よりも多く、アニメを見たい人が計上されているので、こんな過剰な状態になっているのではないだろうか?(他にもいろいろと要因はあるだろうが)。
 『徒然草』のエピソードのひとつにこんなのがある。ある男が池のそばに「この池には龍が出る」という立て札を立てて、人々が集まってくるのを遠くから眺めて楽しんでいたところ、あまりにも人が多く集まってきたので、本当にそこから龍が出てくるかも知れないと、その男自身も思うようになった、という話である。僕は、他者の欲望とは、こういうものだと思っている。つまり、そこには、ある種のマッチポンプのような構造があるのだ。
 僕は、るきさんという人は、そういう構造から非常に上手く逃れている人という気がするのだ。あまり上手く逃れられないと、つげ義春の「無能の人」みたいになるのだろうが、いずれにせよ、そこには、一種の抵抗があるように思える。僕自身、そうした構造に完全に捕らわれている人間なので、たまに『るきさん』のようなマンガを読んだりすると、開放感を味わえるのである。