日常生活の貧しい物語



 前回は、セカイ系と呼ばれる一連の作品群において、主人公たちが普段生活をしている小状況としての日常生活が、全世界の危機という大状況に短絡的に結びついていく、そうしたプロセスを大まかに見ていった。こうした物語において常にアクセントが置かれているのは、大状況のほうではなく、小状況である。全体ではなく、部分である。普遍的なものではなく、特殊なものである。そうした一連の小さなものたちが、今日的な物語において、極めて重要視されているのである。


 さて、今回もまた、大状況と小状況との関わりを見ていくことにしたいが、そこで、まず、はっきりと位置づけておくべきなのが、日常生活という言葉であるだろう。


 日常生活と対立する言葉とはいったい何だろうか? 僕は、それは物語ではないか、と思っている。物語とはひとつのまとまりである。始まりがあって、終わりがある。その物語の中では、部分部分の要素にはすべて意味が与えられている。物語としてひとつの全体を形作っているわけである。それに対して、日常生活のほうは、まとまりなどというものは存在しない。始まりもなければ、終わりもない。意味づけのまったくなされていない部分的な要素もたくさんある。芥川龍之介が『侏儒の言葉』の中で人生について述べているように、日常生活もまた、落丁の多い本のようなものである。すなわち、「一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している」のである。


 このような日常生活と物語との対立という観点から見てみれば、通常のわれわれの日常生活は、常に物語化されていると言える。いや、われわれが自分たちの日常生活を振り返るとき、そこにはどうしても物語としてのまとまりが出来てしまうのだ。この点についての最もいい例は「電車男」だろう。電車男における物語化の視点は、2ちゃんねる内での書き込みのやり取りが、映画やマンガなど、ひとつの作品としてまとめられるときに導入されている。しかし、それ以前に、まとめサイトでまとめられたときにも物語化が起きていただろうし、さらには、電車男の書き込みそれ自体の内にも、物語化の観点が入りこんでいたことだろう。自分自身の日常生活を他人に話して聞かせるという、誰もが行なうそうした身振りの内に、すでに物語化の視点は芽生えているのである。


 つまるところ、日常生活というものは、窮極的には、否定的な形をとってしか現われることはない。「それは実際の体験とは異なる」とか「今の話では触れていないことがある」とか、そうした物の言い方によって暗示されるしかないのである。もし、そこで、また、何かが語り始められるとするならば、そこには、また、新しい物語が生起していることになる。それゆえ、日常生活が、そっくりそのまま、姿を現わす瞬間があるとすれば、それは、(物語の)断絶や切断といった、切れ目を通してでしかないだろう。


 このような日常生活の特殊な地位が、セカイ系作品の物語とどのように関わるのだろうか? セカイ系作品の背後に見出すことができるもの、それは、日常生活そのものを語りたいという欲望である。日常生活そのものを語りたい。それは、いったい、なぜなのか? それは、日常生活こそが、個々人にとって真にリアルなものであり、かつ、自らの存在そのものでもあるからである。しかし、ここにはひとつの矛盾が存在する。それは、そのような生(なま)の現実を、そっくりそのまま、提出することなどできはしないということである。物語化という分節化なくしては、他人に自分の生活を伝えることなどできはしない。こうした矛盾をいかに克服するか。そうした苦闘の跡が、様々なセカイ系作品に見出すことができるのである。


 さて、ここで少し視点を変えて、現代のアニメ作品における日常生活の地位とはどのようなものか、ということを見ていくことにしよう。いったい、現代のアニメ作品において、日常生活とはどういうふうに描かれているのだろか? おそらく、われわれの多くが共有している物語とは『ふたりはプリキュア』のようなものではないだろうか? いったい、どういうことなのか、以下に詳しく述べてみよう。


 『ふたりはプリキュア』の主人公とはいったい誰だろうか? 二人の主要な登場人物がいる。美墨なぎさ雪城ほのかである。彼女たちは私立ベローネ学院という中学校に通っている二人の女の子である。そんな彼女たちが全世界の危機を救うために悪の集団と闘うというのがこの作品の大まかなストーリーである。


 一見したところ、この作品は、なぎさとほのかの二人が主人公のように思える。しかし、それでもなお、「どちらがそうなのか?」と問われれば、それは、おそらく、美墨なぎさのほうだろう。なぎさとほのかを分けるもの、それは、階級差である。美墨なぎさが位置している階級、それは、中流の少し上のほう、いわゆる「アッパーミドル」である。それに対して、ほのかのほうは上流階級に位置している。ほのかの家は大金持ちで、広い家に住んでいる。両親は仕事で家を空けていることが多く、家では祖母と白い大きな犬(これは金持ちの象徴である)と一緒に暮らしている。それに対して、なぎさのほうは、「ごく普通」とは決して言い難い、なかなか豊かな生活をしている。家族構成は、なぎさの他に、両親と弟がいる。典型的な核家族である。家族環境も別に悪いところはなく、学校での生活も悪くはない。なぎさはラクロス部に入っており、そこで大いに活躍している(後にキャプテンになる)。友達からも後輩からも慕われている。片思いではあるが、憧れの先輩もいる。この一見して何不自由ないように見える生活に何かが不足してとすれば、それは何だろうか? それは、この日常生活の外部、「それはさておき、この日常生活の外にはいったい何があるのか」という外への視線である。


 まさに、こうした外への視線を開いてくれる存在が、雪城ほのかだったわけである。第一話において、なぎさとほのかとがすれ違うシーンを思い出してほしい。なぎさもほのかもそれぞれの友達と楽しく話し合っており、お互いの存在などまったく目に入っていないというシーンである。この二人のすれ違いは、単なる性格のすれ違いには還元できないものである。それは、つまるところ、階級差のすれ違いであるのだ。アッパーミドルと上流階級との間には大きな溝がある。それぞれが享受した文化も大きく異なるだろうし、価値観も異なるだろう。二人が友達になれるはずはない。にも関わらず、その二人が友達になる、というのが、この話のミソである。


 こうした『ふたりはプリキュア』の話をよりよく理解するために、補助線として、『マリア様がみてる』という作品を参照にするべきだろう。この作品もまた、アッパーミドルと上流階級との交流を描いた作品である。アッパーミドルに属する女の子である福沢祐巳が、お嬢様の中のお嬢様である小笠原祥子からスール(妹分)として認められる。この幸運な体験が意味しているもの、それは、逆説的なことながら、それまで平凡でありきたりと思っていた自らの生活の大いなる価値づけである。福沢祐巳の悩みが常に階級差を巡っていることに注目しよう。つまり、「自分は、やはり、お姉さまに相応しい存在ではないのではないか」という恐れである。しかし、最終的に、祐巳の価値が認められることからも分かるように、そこで示されるメッセージとは「今のままのお前でいい」というものである。これこそが、まさに、乾ききった日常生活に一滴の潤いを与える魔法の言葉になっているのである。


 自分が想像もしたことがないような別の生活があるという一種の上昇体験をへて、再び、元の日常生活に戻ってくるとき、それまで色褪せているように思えた自分の生活が非常に豊かなものであることを再発見することとなる。こうしたイデオロギッシュな物語展開は、例えば、『ふたりはプリキュア』の場合であれば、次のようなものとなる。なぎさは、いつも、母親からいろいろなことをガミガミ言われて、それをうざったいと思っている。それに対して、ほのかのほうは、両親がいつも家にいるわけではないので、寂しい思いをしている。このとき、なぎさがほのかに見出すのは、上流階級者の欠如であり(お金があるからと言って、すべてを持っているわけではない)、ほのかの持っていないものを自分は持っているという発見である。かくして、なぎさは、母親がいることの価値を再発見するというわけである。


 さらに、『ふたりはプリキュア』の物語構造を分析してみることにしよう。『プリキュア』という作品は、日常生活のシーンと戦闘シーンとに大きく分けられる。日常生活の物語が進行していると、突然敵が出現し、その敵に勝利すると、また再び元の日常生活に話が戻る、という感じである。注目すべきは、いったい敵がどのようなタイミングで現われるか、ということである。この作品における大状況、それは、光(善)と闇(悪)との闘いである。光の園ドツクゾーンという二つの世界の争いに巻き込まれる形で、この世界(なぎさとほのかが住む世界)にも危機が訪れる。その危機を回避するための勇者として選ばれたのが、なぎさとほのかの二人であり、彼女たちは、それぞれ、キュアブラックキュアホワイトに変身して、敵と闘うことになる。


 重要な点は、なぎさ・ほのかという存在とキュアブラックキュアホワイトという存在との間には、明確な切断線が引かれているということである。初めて彼女たちが変身したとき、彼女たちは誰かに体を動かされるような形で敵と闘い、何かを喋るという奇妙な経験をする。つまり、ハヤタ隊員とウルトラマンとの関係のように、誰かに自分の肉体を貸し与えているという感じなのだ。こうした切断線は作品の随所に引かれている。例えば、闇の側の存在との闘いは、常に、一般の人が誰も見ていない場所で行なわれる。空に暗雲がたちこめて、風景が一変するのである。そして、敵に勝利すると、風景は元に戻り、そこで戦闘が行なわれていたことを誰も知らないということになるわけである。


 いったい、この切断が意味しているものとは何だろうか? それは、まさに、この作品の物語の地位そのものに関わっている。先にも述べたように、この作品の物語は、小状況(日常生活の細々とした出来事)と大状況(光と闇との闘い)とに分けられるのだが、闇の存在との闘いという大状況が出現するのは、小状況の物語が完結しそうになるまさにその瞬間なのである。日常生活でちょっとした事件が起こり、その事件が解決して大団円を迎えようとするまさにその瞬間に、敵が現われて、大状況の闘いが始まるのである。つまり、大状況の物語は、小状況の物語にとって、まったく無関係であるだけでなく、その完結を阻止する邪魔な存在なのである。しかし、この一時中断がまったくの無意味であるわけではないだろう。というのも、こうした一時中断のおかげで、日常生活の平凡な物語が新たな潤いを獲得することになるからである。もし、プリキュアがそこで敵に敗北してしまったとしたら、平凡な日常生活の物語などなくなり、物語はそのまま大状況に移行してしまうことになるだろう。


 現代における物語の問題とは、まとまりのない日常生活にひとつのまとまりをつける物語が非常に退屈なものになっているということである。もし、『プリキュア』の話が、日常生活のシーンだけで構成されていたとすれば、そこで描かれている話は極めて平凡で、退屈なものになったことだろう。しかし、だからといって、光と闇との闘いという大状況もまた、非常につまらないものなのである。そうしたつまらない二つの物語を接合することによって、何とか、物語の価値を再発見しようというのが『ふたりはプリキュア』で行なわれている必死の試みなのである。だが、この方向性もまた、最終的には、形骸化を免れないだろう。現在の『プリキュア』がそうであるように、日常生活と敵との戦闘というルーチンワークを日々こなすだけとなる。おそらく、いま必要とされているのは、日常生活を語るための別の物語である。そうした方向性に一歩踏み出している可能性がありそうなのが、おそらくは、セカイ系作品なのではないか?


 次回もまた、ちょっと遠回りをして、現在のサブカルチャーにおいて大状況の地位が低下している状況を概観してみることにしたい。