切断線のない物語



 前回は、今日のアニメ作品において、大状況が非常に空疎なものとなり、むしろ、その空疎さを補填するような形で、小状況が機能している、そのような現状を概観した。旧来の作品においては、大状況と小状況とは滑らかな接続の仕方をしていた。常にアクセントは大状況のほうに置かれていて、小状況は大状況を構成する部分的な要素であった。しかし、現在の作品では、このようなバランスが崩れ、むしろ、小状況のほうにアクセントが置かれるようになってきた。そのため、様々な作品において大状況が描かれるとしても、それは、一種の紛い物の様相を呈するようになったのである。


 さて、今日もまた、大状況と小状況との関わりを見ていくことにしたい。今日、取り上げてみたい作品は、『ふしぎ星の☆ふたご姫』と『魔豆奇伝パンダリアン』である。これら二つの作品に共通して見出すことのできるもの、それは、大状況の価値低下である。


 『ふたご姫』も『パンダリアン』も、問題になっていることは、いかに世界を救うか、ということである。「この世界に危機が訪れている。その危機を回避するために選ばれた勇者がお前だ」というふうに主人公が呼びかけられる作品がこの二つである。この呼びかけという要素だけを取ってみれば、それは、非常にありきたりで、昔からある物語の形態だろう。しかし、これら二つの作品に特徴的なところは、そうした危機的な状況にも関わらず、主人公たちには、それに見合うだけの危機感があまりない点である。


 『ふたご姫』の場合、主人公のファインとレインという双子に与えられた試練とは、世界を救うためには、彼女たちが成長しなければならない(立派なプリンセスにならなければならない)、ということである。つまり、この作品の物語は、一種の成長物語の様相を呈しているのである。様々な経験をすることによって成長していき、そのような個人の成長が、結果、全世界を救うことになる、という構造になっているのだ。


 ここに見出すことができる物語とは、簡単に言ってしまえば、子供から大人へ、というものだろう。この「子供から大人へ」というのは、女の子向けの変身アニメ(魔法少女ものなど)にとって主要なテーマだったと言える。例えば、『ふしぎなメルモ』や初期の魔法少女もの(『クリィミーマミ』など)に見出すことができる変身という要素は、子供と大人との間の切断線というものを明確に輪郭づけていた。つまり、彼女たちが大人に変身するのは、子供には入ることのできない場所に入るためだったり、子供には経験できない大人の世界を垣間見るためだったのである。従って、ここには、大人の世界と子供の世界との間に明確な切断線が存在しているのである。


 女の子向けの変身アニメは、『ふたりはプリキュア』や『ふたご姫』がそうであるように、現在まで継続して作られているわけだが、しかし、そうしたアニメが一時期描いていた子供と大人との間の切断線はほとんど消失してしまった。子供のキャラクターが大人に変身する作品はあっても、そんなふうに大人に変身する必然性が薄らいでいったのである(単純に、大人の体になればその分だけ力が強くなる、というぐらいの位置づけしか与えられなくなった)。


 このような変身という要素はともかくとして、つまるところ、女の子向けの変身アニメにおいては、子供から大人への成長という教訓的な側面が常に存在しているわけだが、『ふたご姫』においては、そうした側面は、ほとんど形式的なものにすぎなくなっているわけである。おそらく、最終的には、そのように様々な経験をすることによって、素晴らしいプリンセスになることができ、そのことによって、世界の危機を救うことができる、という結末に至るのだろうが、そうした大団円は、はっきり言って、形式的なものにすぎないだろう。むしろ、『ふたご姫』において重視されているのは、してもしなくてもどちらでもいいような瑣末な経験、無価値な経験ではないだろうか? あるいは、重要な経験をしたとしても、そうした経験が段階を踏んで徐々に獲得される、といった話にはまったくならないのである。古い成長物語(例えばモーツァルトの『魔笛』のように)系統立てて、段階を踏んで、いくつかの試練を乗り越えていくという物語はここにはないのである。


 『パンダリアン』の場合はどうだろうか? この作品もまた、世界の危機は二の次にされている。世界の危機を告げられた主人公は、その「勇者」という地位にまったくリアリティを感じられない。「世界を救う? いったい何の話だ?」という感じなのである。むしろ、彼にとって重要なのは、自分の夢を実現すること、自分の将来がどのようなものであるかということであり、結果、まず彼のすることは、TV局に就職することなのである。


 だが、『パンダリアン』において注目すべき点は、そこには常に、大状況と小状況との重ね合わせがある、ということである。『パンダリアン』の世界には、悪の権化が存在し、彼は刺客を送りこむことによって、日常生活に混乱をもたらしている。それに主人公のトビーたちは日々立ち向かっているわけである。それゆえ、悪との対決という大状況の物語は、小状況の物語と分離されているわけではなく、同時に行なわれていると言える。しかし、それは、あくまでも、日常生活を切断するものとしての大状況の出現であって、出来事は小状況の延長線上に留まっているのである(『プリキュア』でもそうしたことを見出せるが、小状況の物語を展開させるために、大状況の物語が介入してくる)。


 ここで、ちょっと別の角度から、この大状況と小状況との関係を見ていくことにしよう。それは冒険の不在という観点である。


 しばしば、こうした成長物語においては、冒険という要素が欠かせないものとなっている。主人公たちは旅をして、そこで様々な経験をし、そのことで成長していく。あるいは、悪の権化との闘いであるなら、その悪の権化がいる場所に向かうために冒険をするわけである。『ふたご姫』と『パンダリアン』において特徴的なこと、それは、これらの作品が一見すると冒険ものの様相を呈しているにも関わらず、常に拠点とする場所が存在する、ということである。『パンダリアン』は、後半以降、冒険ものの色合いを濃くしていくので、それほどはっきりしたことは言えないが、『ふたご姫』に関しては明確にそうだと言えるだろう。つまり、ファインとレインは、様々な国を訪れるわけだが、その感覚は、冒険というよりも外出に近い。彼女たちは瞬間移動によって、一瞬のうちに、別の国に移動し、その国での出来事がひと段落すると、また家に戻ってくるのである。


 表面的には冒険ものであるが、その内実はまったく異なっているということを示すのに非常によい作品は、『無人惑星サヴァイヴ』であるだろう。『サヴァイヴ』は、無人惑星に漂流した少年少女たちの冒険の物語であるが、彼らにとって、重要な点は、まさに、ホームとしての家であると言える。彼らにとっての最初の家は、彼らが乗ってきた宇宙船であり、その後、その宇宙船の部品を使って家を建てることとなる。家を建ててしばらくしたあと、今度は、新しく船を作って、それで旅をすることになる。一見すると、ここには非常に大きな移動があるように見えるが、しかし、常にそこに家がある、という点では、移動はほとんどないと言える。ここから、この作品の隠れたテーマとは家族であると言えるだろう。作品の初めのほうで問題になっていたのは、性格のまったく異なる少年少女たちがいかに協力し合える仲間になれるかというものだったが、しかし、これは、突き詰めて考えてみれば、どのようにして家族になれるかということであるだろう。


 それゆえ、ここから問題は、擬似家族の方向へ向かっていくことになるが、その点については、稿を改めて考えていくことにしたい。


 さて、現代の冒険ものというテーマは非常に興味深く、かつ、問題含みであるので、また別の機会にじっくりと取り組んでみたいが、今回主張したかったことは、それまで大状況の物語であったはずの冒険ものが、小状況の物語としてアクセントを変えつつある、ということである。日常生活の外部を旅することが冒険であるのなら、今日的な冒険ものは、日常生活の内部で行なわれているのである。


 以上のような話は、総じて、大状況の物語(大きな物語)の失墜という観点から語ってきたことである。しかし、次回からは、もう少し別の方向から、今日的な物語の特徴について語っていきたいと思っている。それは、メタレベルという視点である。


 あるジャンルが成熟してくると、そのジャンルを相対化するような作品が必ず出てくる。それがメタレベルの視点に立った作品である。日本のアニメの爛熟は、すでに、80年代の時点で迎えてしまったと言える。『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品は、そうした爛熟を清算したような作品だったと言える。それゆえ、現代のアニメとは、そうした爛熟を通り越してしまった後の作品、メタレベルのメタレベルというか、メタレベルそのものがほとんど機能しない時代の作品だと言えるだろう。こうした変化を、次回以降、80年代の作品と現在の作品とを比較することによって、跡づけていきたいと思っている。こうした試みを経ることによって、セカイ系のような今日的な物語形式を分析するための新しい視点を手に入れることができるのではないだろうか?