『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(4)



 前回は、シャアというキャラクターに注目していくことによって、『機動戦士ガンダム』という作品が、いかに、従来のような善悪二元論的な図式を回避しているか、ということを見てきた。今日はまず、そのような善悪二元論的な物語を回避した結果、『ガンダム』という物語に一種の政治的視点が導入されたことを示し、次に富野由悠季が『逆襲のシャア』の中で目指したことを明らかにし、最後に今日のアニメが置かれている状況の中に『ガンダム』を位置づけてみたい。


 『ファーストガンダム』において、政治的な闘争は、中心的なストーリーの背景として暗に示されているだけである。いわゆる「設定」という形、本編では明確には語られない形で、暗示されているだけである。


 『ファーストガンダム』における政治的な物語は、ジオン軍による独立戦争の物語である。「宇宙世紀」とは、人類の一部が宇宙に移民して以後の世紀のことを指す。その移民者たちの暮らす場所がスペースコロニーであり、それは、地球本国に対して植民地のような立場にあった。つまり、宇宙居住者(スペースノイド)は、地球に住む人々(アースノイド)よりも、劣等の人種と見なされていたのである(経済的な理由などで地球に住むことのできない人たちが宇宙に住むことを余儀なくされた)。そのようなスペースノイドの扱われ方に不満を抱いていた人たちが地球からの独立を訴え、その結果、打ち建てられた国家がジオン共和国(後に公国)なのである。


 それゆえ、『ファーストガンダム』で描かれる「一年戦争」と呼ばれる戦争で争点となっているのは、ジオンの国家としての独立であり、スペースノイドの尊厳の回復であり、豊富な宇宙資源の帰属問題なのである。


 このような政治闘争の内に、思想的な闘争(イデオロギー闘争)をも見出すことができるだろう。地球至上主義とジオニズムとの対立がそれである。ここで示されている対立点は、一見したところ、地球に住んでいるか、コロニーに住んでいるか、という場所だけの問題のように見えるが、一般に、場所の果たす役割は非常に大きいものだ、と言えるだろう。つまり、場所とは、そこにいる人たちのアイデンティティの根拠となりうるのである。


 ここで重要になってくるのがシャアの父ジオン・ズム・ダイクンが唱えたと言われる「ニュータイプ思想」である。スペースノイドアースノイドとの間の対立が単なる場所の問題だけではないのは、そこに、このニュータイプ思想があるからである。つまり、それまで地球本国の植民地であったコロニーの人たちが、自分独自のアイデンティティを得ることができたのは、自分たちが新しいタイプの人間、地球にいる人たちよりも進化した人間として、自己を同定することができたからである。


 なぜ、『ファーストガンダム』ではジオンが、どちらかと言えば、悪の位置にあり、『Zガンダム』では、ティターンズが、どちらかと言えば、悪の位置にあるか、というその理由が、まさにここにあるだろう。つまり、富野由悠季は、まず、ジオン公国の国家理念として示されるような進化思想を否定したかったのである。その証拠は、ニュータイプとされる人たちの描かれ方にある。富野は、ニュータイプを、終始、悲劇的な人間として描く。ニュータイプの特殊能力とは、広大な宇宙空間にいることによって、発達した能力であり、それは、他人のいる場所が直感的に分かる、というものである。しかし、その能力は、戦争という場面において、戦闘の道具として用いられた。つまり、敵のいる場所を瞬時に認知することができる能力として用いられたのである(この点で、最も悲劇的な人物として描かれているのが、ララァ・スンだろう)。


 そのような特殊能力を、そうした能力を持たない人たちと比較して、そこで優劣を決し、その能力を持たない人たちを差別することによって、自らのアイデンティティを獲得する。そのような進化のあり方については、富野は否定的だろう。こうしたことは、『ファーストガンダム』の次に作られた富野の作品、『伝説巨神イデオン』を見ることによって、窺い知ることができる。そこでは進化というものに関して、何か具体的な内容が込められてはいない。生物というのは進化するものであり、それは自然法則に従ったものだ。ここで、富野がアクセントを置いているのは、「進化する」というただそのことだけであり、そこには優劣の価値観は存在しない。常にずっと同じ状態でいることのほうが不自然であり、変化することのほうが自然だ。そのような世界観がそこには見出せるのである。


 自分たちだけが持っているもの、自分たちだけの属性、そうしたものを、それを持っていない人たちとの差異づけに利用し、自らを優位な場所に位置づけ、他の人たちを差別すること。そのようなアイデンティティ確立の方法は、『Zガンダム』に出てくるティターンズがやっていることでもある。アースノイドが最も優れているという地球至上主義がまさにそれである。この点で、ジオンとティターンズは、アイデンティティの確立方法としては、同型であると言えるだろう。そこで行なわれているのは、自らのアイデンティティを確立するために、他者との差異を際立たせる、というものである。


 「地球の重力に魂を引かれている」というシャアがしばしば言う台詞には、もう少し、多くの意味が込められている。それこそが「大衆批判」と呼ぶべきようなものである。地球人は、地球から離れて宇宙に進んでいくという流れとは別に、地球に留まり、地球出身であることに価値を置くようになった。こうした退化を富野が批判できる唯一の点は、それが人類全体の進化という視点から見れば、逆行しているというただそれだけである。変化することを良しとし、膠着することを悪しとする。ただそれだけである。そこには、誰もが認めるような、絶対的な価値観は存在しない。ティターンズの所業はひどく悪いものとして描かれているが、その点が彼らを悪の権化とする決め手になるわけではない。むしろ、地球人たちに進化を無理矢理促す行為こそ、つまり、地球に隕石を落とすという『逆襲のシャア』においてシャアがやったことのほうが悪の所業なのである。


 絶対的な善もなく、絶対的な悪もない場合、それでは、どのような名において、善をなすことができるのか? ここにおいて、絶対的な善と絶対的な悪という対立軸は、次のように移行する。すなわち、部分的な善と絶対的な悪との対立である。部分的な善と対立している絶対的な悪は、絶対的な善と対立している絶対的な悪と、そのあり方が異なる。つまり、絶対的な善と絶対的な悪が対立している場合、そこには絶対的な価値基準が存在することが前提である。善と悪は同じ価値基準から判断される。しかし、部分的な善と絶対的な悪との対立は、まさに、価値基準同士の対立と言える。様々な価値基準が乱立し、様々な善が溢れかえる。こうした状態において、何か絶対的なものが立ち上がるとすれば、それは、どんな価値基準にも従わないという行為、どんな善にも奉仕しないという行為によってであり、その行為こそ、絶対悪に他ならないのである。


 ここにおいて、『逆襲のシャア』は『イデオン』を反復した作品と言えることだろう。『イデオン』において、富野は、あらゆる登場人物を殺害したが、それは、まさに、彼らを未知の目的へと、純粋なる進化へと捧げるためである。同様に、シャアは、地球人を、進化(自然)へと捧げる。『イデオン』と『逆シャア』との違いは、『イデオン』において、人類の殺害を促したのは、神の見えざる手であったが、『逆シャア』の場合、それをなそうとするのは、シャアというひとりの人間である。ここに、ヒーローとしてのシャアの苦悩がある。彼は、存在することのない絶対善をなすために、絶対悪をなすのである。そこにあるのは、ただ不安と恐怖だけである。そこで、彼は、一時的にでも、(すべてを受け入れてくれる)母親的なものに逃げ込もうとするのである。


 多様な価値観、多様なライフスタイル、そこで獲得される自由は、人類にとって、大きな悩みの種と言えるだろう。自由に窒息しそうになった人は、それを回避するために、何か絶対的なものに寄りすがろうとする。「地面」を求めようとするのである。富野の言う「魂を重力に引かれる」とは、そのようなことだろう。富野は、それを拒絶したが、しかし、それに代わるものとして、「自然(進化)」という新たな絶対的なものを持ち出してきてしまった。『逆襲のシャア』のラストシーンから考えると、そのような方向に対しても、富野は疑いを示したのだろう。しかし、それでは、いったい、何が残っているのだろうか? 


 今日のアニメーション作品を概観したとき、そこには、もはや、絶対的なものなど見出せない(絶対的なものへの希求は見出せるが)。そこにあるのは、部分的なものだけである。しかし、今日のわれわれにとって重要なのは、この部分的なものであることは間違いない。それは、例えば、個人の記憶であり、具体的な他者に対する愛であり、一回限りの生である。それは、はかないものであり、客観的には、無価値なものである。しかし、個々人にとって重要なものは、それだけしかない。それだけが個人を支える細い糸となっているのである。


 富野由悠季の作り出した一連のガンダム作品は、今日のアニメーションに大きな影響を与えている。今日のアニメーションに見出される問題がすでに『ガンダム』に見出せるのである。「地球の重力に魂を引かれた人々」への批判の物語である『機動戦士Zガンダム』は、言い換えれば、絶対的なものから部分的なものへの転換を志向した物語である。しかしながら、相対主義という名のニヒリズムに陥ることなく、それを成し遂げることは可能だろうか? 今回の劇場版が第三の道への入口を指し示してくれることを願ってやまない。