『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(2)



 さて、前回は、富野由悠季が、単純な善悪二元論的な発想に対して、そこに亀裂を生じさせるような作品(『無敵超人ザンボット3』)を作った、という話をしたわけだが、今日は、その帰結が『機動戦士ガンダム』という作品を生み出したということを示してみたい。


 『機動戦士ガンダム』を形容するときに、しばしば、「リアル」という言葉が用いられるが、それが言わんとしていることを厳密に定めるならば、どういうことになるだろうか? 『ガンダム』のリアルさは、もちろん、それまでの巨大ロボットものと比較してのことだが、そうした点から言えば、そこでのリアルさは、相対的なものと言えるだろう。『ガンダム』はリアルな作品であったが、それはそれ以前の作品に対してそうなのであって、それ以後の作品との関係で言えば、それほどリアルとは言えない、というように。


 そんなふうに価値相対的な視点を導入した作品として、『無限のリヴァイアス』を思い出してもいいだろう。この作品で、登場人物たちは、あたかもそれまでのアニメ作品を否定するかのように、挑発的なことを述べる。「宇宙での戦闘ほど無意味なものはない」などと言ったり、二本足の巨大ロボットを見て大笑いしたりするのである。こうした相対化は、宇宙やロボットに対する知識が昔よりも増えてきたことによって、可能となったものだろう。知識の量によって相対化を行なうことは、いつの時代でも可能なことだろう。


 しかし、こうした相対化の水準とは別に、『ガンダム』に対して「リアル」という言葉を用いるのが適当な部分がある。それこそがまさに、善悪二元論の拒絶ということと密接に関わる部分なのである。


 善悪二元論を拒絶するとどのような帰結が導き出されるのか? ヒーローの立場が宙ぶらりんになるという帰結である。世界征服の野望を持った悪の組織と正義の味方であるヒーローの闘いという典型的な物語を再度考えてみよう。そこで、ヒーローが果たす役割は、極めて大きなものである。彼は全世界を守るために闘う。彼には大きな力が与えられているが、それは全世界を守るという至高善に奉仕しているからである。誰にとっても共通に良いこと。そうしたものがあるのは、それとは対照的に、誰にとっても悪いことがあるからである。それを体現しているのが悪の組織であり、彼らがやろうとしているのは、世界征服という絶対悪である。


 世界征服の野望とは何を意味するのか、よく考えてみよう。それは、すべてを所有すること、あらゆるものを使用する権利を得ることである。全世界が誰かのものになってしまう、私の財産はもちろんのこと、私の身体も、私の精神も、それらすべてが誰かのものになってしまう。このようなぞっとする状態に対するイメージこそが、われわれにとって共通の良いものを導き出す。それは、全世界を誰かひとりのものにさせない、という単純な結果である。かくして、そうした物語においては、ひとりのヒーローに、悪人と匹敵するような絶大な力が与えられたとしても、そのことは、ほとんど黙認されているのである。


 さて、それでは、このような誰にとっても悪であるような存在がいなくなるとき、ヒーローはどうなってしまうのだろうか? ある立場があり、それとは対照的な立場がある。Aという立場があり、Bという立場がある。Aから見ればBは悪であるし、Bから見ればAは悪である。こうした状態にあって、ヒーローは、常に部分的な善にしか奉仕できなくなる。誰にとっても良いことがないわけだから、何かをしたとき、それは常に誰かにとって良いものにしかならない。逆に言えば、その行為は、常に誰かにとっては、悪いものになりうるのである。


 ここに、ヒーローの葛藤が生じる余地がある。敵を倒すことに苦悩するヒーローとしてのアムロカミーユを思い起こそう。彼らは、人を殺すことを良しとはしていない。それをしたくはないが、やらねばならないことと考えている。こうしたヒーローたちは、悪人を嬉々として倒すヒーロー像とはまったく異なっている。悪の組織と闘うヒーローの背後には絶対的な正義という後ろ盾があった。それに対して、アムロカミーユには、そのような後ろ盾はなく、単なるひとりの人間にすぎなくなったのである。


 しかし、この点が興味深いことではあるのだが、彼らはわずかばかりの力を持ったヒーローでもあるのだ。その力は、それ以前のヒーローたちと比べれば、非常にわずかなものである。彼らは、全世界を救うことなどできやしない。ひとりの人間を救うことだって難しい。しかし、他人よりも多く、人を殺すことができる力は持っている(とりわけ、ニュータイプの力を)。そうした力を持て余しているのが、アムロであり、カミーユであり、そして、シャアであるのだ。


 『新世紀エヴァンゲリオン』以降、奇妙なことに、こうしたヒーローたちの無力さに焦点を当てた作品がたくさん作られている。そうした作品で描かれているのは、主人公の無力さと、それを補うような形で出てくる、全世界を変えたいという欲望である。例えば、『なるたる』という作品が、そのような作品であるだろう。


 この作品に出てくるのは、毎日の生活にうんざりした子供たちである。そうした子供たちの典型は、イジメられっ子である。彼(女)らは、毎日イジメを受けることによって、日々の生活に苦痛しか見出していない。彼(女)らの不満が向かう先は、大きく言って二つある。自分自身と全世界である。一方で彼(女)らは、イジメに対して何もできない自分の無力さにうんざりしている。その方向を突き進めば、それは自殺に行き着くことだろう。もうひとつの方向性は、こんなふうに自分がイジメにあうような世界全体を変えたいという方向性である。こうした方向性は、様々な犯罪行為に向かっていくことだろう(それは「黒の子供会」のメンバーが考えていることでもある)。


 アニメ『なるたる』で次のような印象的な場面があった。アパートのドアの両わきに二人のイジメられっ子の女の子が座って、話をしている場面である。そこで二人は、自分たちの生活がどれほどうんざりしたものであるかを語り合い、そして、片方の女の子はリストカットの傷跡を示すことによって、この世界から立ち去ることをほのめかす。それを見たもうひとりの女の子は、そのことに反発し、そんなふうに被害を受けた自分がさらに死という代償を払わなければならないことに対して異を唱え、むしろ、世界を否定する方向性に進んでいくのである(この女の子は、その特殊能力によって、イジメっ子たちを殺すことになる)。


 『機動戦士ガンダム』を考えた場合、話はそんなふうに二極化しない。それは『ガンダム』が政治というものを描いているからである。しかし、その政治は、非常に極端なものである。ジオン、ティターンズネオジオン。これらの政治勢力が指し示しているのは、世界変革の方向性に近い。それは、連邦軍が代表しているような民主主義に対する挑戦である。相対的な価値観の世界に窒息しそうになったときに、何か絶対的な価値を示してくれるものがあると大きな解放感が得られるのである。


 次回は、以上のような文脈から、ジオンとティターンズという二つの勢力について考えてみたい。