ナイーブという名のリアル



 前クールにTVで放送されていた二つのサブカルチャー作品、アニメ『ファンタジックチルドレン』と特撮ドラマ『シブヤフィフティーン』には、奇妙な共通点がある。それは、仮象にこだわる、という点である。


 昨今、ブームになっている純愛ものでは、常に、この仮象が問題になっている。一見すると、そのような純愛ものでは、永遠の愛が語られていて、一時的なものに過ぎない仮象は廃されているように思える。しかし、仮象と本質との区別は、そんなふうに単純に二分できるものではない。


 『ファンタジックチルドレン』がそうであるような、転生を物語のベースにした純愛もので、永遠の愛を語る手段とは、次のようなものである。二人の男女が偶然に出会い、恋に落ちるが、実のところ、その恋は、前世の運命によって、定められていたものである。二人は、前世では、何らかの理由で離れ離れになってしまい、お互いに来世での再会を約束する。来世では、二人の記憶はなくなっているのだが、無意識の次元で、そのことを覚えていて、そのような無意識の記憶に突き動かされるような形で、二人は再び出会い、約束を果たす、というものである。


 このような愛の描かれ方においては、前世・現世・来世といった、ある個人の(一時的な)生には、大した価値が置かれていない。いつでも、どこでも、二人は出会い、恋をするからである。二人がお互いを愛し合うのは、絶対的なことであり、それは、時間や空間には束縛されない。


 だが、そのような永遠の愛を描いている反面で、こうした作品においては、仮象にも力点が置かれているのである。つまり、前世や来世よりも、現世が、現在この場所にいる二人の関係が重視されているのである。


 永遠の生から有限の生への転落というテーマは実に興味深いものである。『ロード・オブ・ザ・リング』でも、同様の問題が描かれていた。登場人物のひとりであるエルフが、人間と恋をし、その永遠の命を捨てるというエピソードである。有限の時間を愛する人と共に過ごすということが、逆に、その愛を絶対的なものにしているのである。


 この点で、『シブヤフィフティーン』のラストは、非常にショッキングなものと言えるだろう。この作品では、常に、バーチャルな世界である「シブヤ」から外に出ることが問題になっていた。偽りの世界があり、その外に本当の世界がある。それに気づいた者たちは、外の世界に出ようとする。しかし、ラストで主人公は、いったん、シブヤの外に出たにも関わらず、またバーチャルな世界に戻ってくる。それは、バーチャルな世界でしか生きられない、あるいは、バーチャルな世界にしか存在しない少女と共に生活するためである。


 この作品のショッキングなところは、以上のようなストーリー展開そのものにあるのではなく、ラストに示されたそのナイーブな結論にある。偽りの世界と本当の世界があるという二分法も、バーチャルな世界からリアルな世界へと向かうという展開もナイーブであるが、さらに輪をかけて、バーチャルなものにすぎない仮象に執着するというこの結末も、極めてナイーブではないだろうか? 観客の予想を裏切ることを至上命題にしているかのような昨今のハリウッド映画だったら、絶対に考えられない展開だろう。『シブヤフィフティーン』の最終回のサブタイトルは「リアル」というものだったが、それは、バーチャル=リアルということではなく、ラストの展開のナイーブさがリアルだ、ということではないか?


 最も嘘くさいものが最も本当らしく見えるというこの逆説。それは、この情報化社会の中で生きるわれわれが最も陥りやすい罠だろう。多様な情報が氾濫し、あらゆる価値観が相対化されている中で、われわれは、物事の裏をすぐに読み取ろうとする。最も表面に現われているものはまず間違いなく嘘だ、という思考方法に慣れてしまっている(例えば、マスコミは事実の一部を誇張して報道している、など)。そういう裏読みを続けていくと、ある時点で、最も表面にあるものが逆に真実らしく見えてくる、という逆説が生じる。「自分はちょっと考えすぎてしまった。真実はこんなにも単純だったんだ」という一種の思考停止とも言える態度である。新興宗教やオカルトがはびこる所以であるだろう。


 虚構と真実、バーチャルとリアル、こうした二項対立は、80年代くらいからすでにあった問題であるが、インターネットが普及した今日、ますます身近な問題となっている。こうした状況にあっては、安易に真なるもの(絶対的なもの)を求めたがる傾向が出てくるのも理解できることであるが、そういう時だからこそ、慎重に行動すべきだろう。純愛の理想は、完全に、こうした傾向に足を絡め取られている。純愛の背後には、絶対的なものを求める欲望が見出せるのである。こうした欲望を軟着陸させる上手い方法はないだろうか? 模索を続けていきたい。