『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(1)



 今日、劇場版『機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者』を見てきた。僕は、以前から、TVで『Zガンダム』の再放送を見ているので、今回この劇場版を見ても、取り立てて、感慨を抱くことはなかった。TV版のダイジェストを見ている感じだった。従って、今日は、映画の感想というよりも、以前から『Zガンダム』について考えていたことを、暫定的なまとめとして、書いてみたい。


 『機動戦士Zガンダム』という作品を適切に位置づけるためには、その前後に作られた富野由悠季の作品、『ファーストガンダム』はもちろんだが、とりわけ、『無敵超人ザンボット3』から『逆襲のシャア』へと至る流れを押さえておく必要があるだろう。


 『機動戦士ガンダム』は、それ以前の巨大ロボットアニメと一線を画す作品と言われるが、いったいそれまでの作品とどこが異なるのだろうか? 違いはいろいろと見つけられるだろうが、僕は、善悪の位置づけがそれまでの作品と大きく異なるように思える。旧来のヒーローものの作品(そして現在の多くの作品もそうであるが)では、善と悪とが明確に分かれていた。主人公は善の場所に立っており、その敵は悪の場所に立っている。悪事をなす者がいて、それと闘うヒーローがいる。ヒーローとは、まるで、犯罪者を取り締まる警察官のようである。社会の秩序を乱す者がいて、それを退治するのである。


 そうした単純な二項対立に、富野由悠季は常に異を唱えてきたと言えるだろう。『機動戦士ガンダム』について考えてみたときに、ジオン軍を悪の場所に、連邦軍を善の場所に、単純に位置づけられるだろうか? アムロが善で、シャアが悪だろうか? 『機動戦士ガンダム』で示されていたのは、個々人のドラマであり、道徳的判断を指し示すための教訓物語が示されていたわけではない。


 しかし、だからといって、富野は、絶対的な善はなく、絶対的な悪もない、という相対的な立場に留まっていたわけではない。そうした相対的な立場から、彼は一歩踏み込んでいた。そのことをよく理解させてくれる作品が『無敵超人ザンボット3』である。


 『ザンボット3』は、基本的には、それまでのヒーローものの作品と同じように、地球の平和を守るために、主人公たちが敵と闘う話であるが、それまでの作品と大きく異なる点は、そこで示された一般大衆への不信感である。通常、ヒーローは、助けを求める人々の声に応じる形で敵と闘い、人々から感謝される。ヒーローとは、人々の被っている苦痛を和らげてくれる存在である。人々は善意に満ちた無垢な存在であり、彼らの平和な日常を掻き乱す敵は、悪意を持った存在である。平和な安定した生活があり、そこに亀裂をもたらすのが敵なのである。ヒーローは、その亀裂を修復し、もとの安定した日常生活をもたらす役目を担っている。


 こうした前提の上で、『ザンボット3』がもたらした視点というのは、大衆というのは生粋のエゴイストだ、というものである。『ザンボット3』の敵は、日本の街を破壊しにやってくるのだが、そのことに対して、人々は、「主人公たちの一族がここにいるから、敵がやってくるんだ」と、主人公たちに問題の原因をすべて押しつける。「悪いのは主人公たちであり、彼らがいなくなれば日本は平和になる」。こんなふうに人々は考えるわけである。主人公たちは、そうした非難を浴びながらも、敵と闘い、地球を守ろうとする。しかし、そのことを感謝するものはほとんど誰もいないのである。


 ここで問題となっているのは、ヒーローのアイデンティティである。ヒーローの欲望と大衆の欲望とが合致している場合には、何の問題もないだろう。ヒーローの考える善と大衆の考える善とが一致する場合である。しかし、そこに齟齬が出てくるとき、問題が生じる。ヒーローの考える善と大衆の考える善とが異なる場合、とりわけ、敵を倒すことによって、それまで安定していた生活をヒーローが掻き乱す場合、大衆はヒーローを悪の場所に位置づけることだろう。そのとき、ヒーローは、自分の振る舞いに疑問を持つはずである。いったい自分は何をやっているのか、自分のやっていることは意味のないことなのか、そんな疑問が出てくるのである。


 大衆の考えている善とは安定であり、もし何らかの悪をなすことによって(一部の者を犠牲にすることによって)、一定の安定が得られるのならば、大衆は悪人とも手を組む。これこそが、富野が巨大ロボットアニメに導入した驚くべき視点である。正義というものが、多くの人に苦痛をもたらす場合、それでもなお、その正義を断行すべきなのか? こうした問いを、ヒーローは、新たに背負うことになったのである。


 だが、こうした視点は、容易に、善悪二元論へと回帰してしまう。世の中に害をもたらしている悪人がいるという思考法は、それほど魅力的なのである。一連のガンダム作品において、富野がいかにこの思考法と対決したかということについては、次回に詳しく述べてみたい。