木を植えた男



 カナダのアニメーション作家、フレデリック・バックの『木を植えた男』のビデオを友人から借りて見た。


 僕がこの作品を最初に見たのは、高校生のときだ。深夜に放送していたのを録画して見たのだ。この作品を見るのは、それ以来である。つまり、これまで、たった一度しか見ていなかったわけだが、それでも、この作品は、ずっと記憶の中に残っていた。それだけインパクトのある作品だったのである。


 改めてこの作品を見てみると、やはり感動を覚えずにはいられない。人間の生とは何か、仕事とは何か、そうしたことを考えさせられる。


 この作品の主人公の偉大さは、次のようなところにある。まず、毎日、仕事をしたこと。そして、その仕事は、誰に言われるでもなく、自分から進んで始めたこと。その仕事の対価として、お金がもらえるわけではないこと。その仕事をしたからといって、誰かから認められる保証は何もないこと。そうした条件の下で、地味な仕事を毎日やったことにある。


 彼の仕事とは、不毛の荒野に、ドングリを埋めることである。つまり、不毛の荒野を緑の大地にしようというのだ。この仕事は、すぐに、その成果が分かるようなものではない。不毛の荒野を緑の大地にするためには、何十年もの月日が必要だ。男はその仕事を50才代に始めた。つまり、男は、自分の仕事がある程度の結果を出すときまで生きられる保証もない、そんな時期に、仕事を始めたのである。自分の仕事がまったく意味のないもので終わってしまうかも知れない。それが分かるのは何十年も先の話である。それにも関わらず、その仕事を始めること。これは偉大なことではないだろうか?


 この作品では、男は生き続け、その結果、不毛の大地が緑に覆われることによって、男の仕事は報われるわけだが、しかし、場合によっては、不毛な結果に終わっていたという可能性もある。だが、その場合でも、この男は、また一から仕事を始めただろうと思われる。この不屈の精神は偉大ではないだろうか?


 こうした男が、人間の理想として描かれるというのは、ある意味、奇妙なことである。男は、山の中に隠遁し、ほとんど誰とも会わず、孤独に日々の生活を送っている。彼は、人間の文明の周縁で、生活しているのだ。男が仕事をしている間に、二つの大きな戦争があったわけだが、そうした出来事が、男の仕事に影響を与えることはない。男の仕事は、人間の世界と、ほとんど切り離されているかのようなのである。


 僕はこの作品を見ながら、そこに、宗教的なものの影を感じずにはいられなかった。作品中にそういった台詞があったと思うが、男の仕事を誰も知らなくても、神が男のことを見ている。男が他人の目を気にせずに毎日の生活を送ることができるのは、彼が神の目を意識しているからである。男がどのような信仰を持っているかは分からないが、何か彼の信念を支える絶対的なものがなければ、とても、あんな大事業を行なうことはできないだろう。


 つまるところ、ここで描き出されているのは、決して揺るがない信仰心である。男が毎日ドングリを埋めることは、祈りの振る舞いと同じものではないだろうか? 何か明確な報酬を求めて行なわれるのが祈りではないだろう。祈りとは、来るべき何かを待ち望む、そうした信仰表明そのものではないだろうか?


 ミレーの『晩鐘』という作品に、一日の仕事を終え、祈りを捧げる農夫婦の姿が描かれているが、いつの時代でも、文明人の理想とは、自然と共に生活している素朴な農民の姿に投影されるのだろう。そこには、文明人が失ったものを見出すことができる。『木を植えた男』で描かれているのも、まさに、そんなふうに文明人が農民に注いでいる憧れの眼差しそのものである。人間は、文明から遠ざかれば遠ざかるほど、真に人間らしくなる。そんな逆説がそこでは描かれているのである。