第二の人生



 先日、『バタフライ・エフェクト』という映画を見に行ったので、その感想を少し書いてみたい。


 このところ、僕は、アニメばかり見ていて、映画をほとんど見ていないが、少なくとも、2000年以降に作られたアメリカの映画を(以前に)いくつか見たその記憶から述べてみると、それらの映画は、奇妙にも、日本のサブカルチャーと多くの類似点を持っているように思える。今回の作品なども、その部分部分の要素は異なるとは言え、基本的な枠組みだけなら、日本のサブカルチャーにも似たような作品を見出すことは難しくないだろう。


 近年のアメリカ映画(に限定されないだろうが)で主に扱われている問題は、個人の生の問題、他から切り離されて、個別化された個人の生の問題である。『バタフライ・エフェクト』では、記憶と過去が問題になっているわけだが、なぜそうしたものが問題になるのかと言えば、それは、個人の生が孤立したものと捉えられているからである。人は生まれ、そして、死ぬ。その二つの出来事の間の短い距離、その距離の間に個人の生は閉じ込められている。人は、様々な選択を行ないながら、一本の線を描いていく。そして、その線は決して消すことができず、戻ることもできず、最終的には、死が待っているわけである。


 このような人生観を当然のものと思ってはいけない。これは、非常に一般的な人生観ではあっても、特殊な人生観である。どの時代の、どの場所にいる人間も、共通して持っている人生観ではないだろう。そして、近年のアメリカ映画で示されていることは、そうした人生観においては、人生は、その結果から、成功した人生(幸福な人生)と失敗した人生(不幸な人生)の二つに容易に分けられる、ということである。何が幸福で、何が不幸かは、一概には言えない、と言うことはできるだろう。しかし、問題なのは、そんなふうに、不幸か幸福かを決定づける、人生の出来事を消し去ることはできない、ということである。何か重大な失敗をやらかしたとしても、それは取り返しがつかない。過去に戻ってやり直すことができない。こうした後悔の念、現状に対する不満の念を持っている人が非常に多いからこそ、この『バタフライ・エフェクト』のように、過去に戻ってやり直すという話が描かれるのではないだろうか?


 孤立した生の問題、それが意味しているのは、個人の生をバックアップするようなものが希薄になっている、ということである。最近、リスク社会ということが語られているが、その言葉が指し示しているのも同様の問題だろう。つまり、自分が選択したことの結果を自分がすべて引き受けなくてはならない。加えて、それがどのような選択肢であったとしても、リスクのまったくないような選択肢は存在しない。いったい、どのリスクを選ぶか、ということが個々の選択で問題となっていることなのである。


 こうした観点から見ていくと、『バタフライ・エフェクト』は、まさに、選択を扱った映画だ、と言えそうである。主人公は、何度も過去に戻って、選択をやり直すわけだが、そのことによって、彼が十分に満足するような結果がもたらされることは一度もない。どの選択肢にも何らかの負の側面があるのだ。その描かれ方は極端であるが、どの選択結果も完全な満足を与えることはないというのは、おそらく真実であるだろう。


 ここで、「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの有名な言葉を引き合いに出したくなる。なぜ、神はサイコロを振らないのか? それは、神には、時間の概念が存在しないからだろう。神が永遠の存在であるならば、神にとっては、原因‐結果の因果律は問題にならないはずである(偶然は存在せず、すべては必然である)。これに比べて、映画の主人公は、まさに賭博者そのものである。彼は、いい目が出るまで、サイコロを振り続ける。しかし、いったい、どの目がいい目なのだろうか? もし無限にサイコロを振ることができるとすれば、そのことを永遠に知ることはできないだろう。なぜなら、すべての目を比較検討して、最良の結果を導き出すといった、超越的な立場に立つことは永遠にできないからである。


 この映画が指し示していることは、それゆえ、人間が有限である(その認識に限界がある)ということがいかに幸福な状態であるか、ということである。人間は、与えられた条件の中で、何とかやっていくしかない。そのとき、自分の選択を後悔したり、自分の人生に様々な悪影響を及ぼしたと考えられる人たちを恨んだりする。こうした後悔や恨みと引き換えに、自分の人生を享受できるとすれば、それだけで幸せではないのか? そうしたことを、この映画は語っているように思える。


 だが、このような悟りめいた人生観は、非常に問題含みだと言わねばならない。そうした人生観は、容易に、単純な現状肯定へと至るからだ。多様な問題を非常に単純化することになりかねない。大枠は正しいとしても、部分的には間違っている。この映画において、最終的に、主人公は、自分の人生を大きく変えたということに注目すべきだろう。彼は多くのものを失ったが、それによって、多くのものを得てもいるのである。最近の様々なアメリカ映画が問題にしている「第二の人生」の問題が、SF的な装いの下、ここにも見出せるわけである。